沈香18玉

久々に大玉でまあまあと思える沈香の玉で完成。

実は製作中につい力が入って、ボサを割ってしまい
作れずにしょげていた思い入れの念珠。

割れたボサは、お香としてくゆらせました。
沈香も白檀も、念珠としてもよし、香として使ってもよしだ。
でもいい香木は玉にしてとっておくことを選びたくなる。

縁は異なもの

僕の店をご存知の方には、ご理解いただけると思うのだが、
店の前面の道路は、浅草にしては珍しく、何の変哲もない黒い舗装の道案内すらない、通り会もない、ごくごく普通の生活道になっている。

地下から地上に出ると方向御地になりやすい。
他の人はわからないが、僕は土地不案内の駅で地下鉄から地上に出るといつも迷子になる。

だからこの通りの商店は道を尋ねられる機会が甚だしく多い。

訪ねられるのも縁のうちと思える者にあたればよいが、そう思えないものもいる。
理不尽な答えをする不届き者もいるみたいで、観光客は浅草の第一印象を損ねて帰ることになる。浅草を好きな自分としてはたまったものではない。

とにかく都営地下鉄を利用して、横浜や千葉方面から地上に出てくると、まずこの通りに出ることになる。

じつは、この通りには思い出がある。
思い出といっても姉が体験した間接的な思い出なのだが。

僕が20才のとき二つ年上の姉は職場結婚をした。
もうできないからと結婚前に最後の家族旅行をすることになった。

僕は照れもあって、なんとかかんとか理由をこじつけて辞退した。
二人で行っておいでと見送る側に回った。

数日後、姉と母二人は日光に出かけた。
方向音痴の二人で大丈夫だろうかと不安を残しながらも。

当時住んでいた横浜から日光に行こうとすれば、
京浜急行を使い相互乗り入れしている都営地下鉄の浅草駅で一旦地上に出て、
松屋デパートのある東武電車の始発駅に乗り換えるのが定石だった。

母は青春時代(戦中)仙台から川崎の軍需工場に動員されていた。
仕事の合間になると、仲間と浅草には遊びに来ることが多かったらしい。
そんな思い出の土地ゆえ、多少の土地勘に自信をもっていたのだろう。

けれどその自信はみごとに砕かれる形となった。

日光から帰ってきた母娘の土産話は、親子喧嘩の話しからはじまった。

都営地下鉄の浅草駅で地上に上がってから、全く方向がわからなくなったのだ。

大きい通りに出れば、すぐに乗り換え駅が見えたはずなのに、
小道である側に出てしまった。

つまり将来、僕の店ができるの側の道だ。

人に道を聞いてもさっぱり要領を得ず、ぐるぐる歩き回っている間に指定をとっていた特急列車は無情にも発車してしまった。

まさか、その十何年後に弟が親子喧嘩の舞台になったその「通り」に
店を出そうとは夢にだに思わなかっただろう。

僕とて、この路上で母娘して血相を変えて走り回っていたかと思うと
旅に付き添わなかった済まなさと、可笑しさが入り混じる。
そして同時に、縁の不可思議さを感じてならない。

CHANGE

知らなかったわけではないのだが、一度も見ずに終わってしまった。

最近のドラマを観るときはいつもこのパターン。
最終回が終わった後にのめりこむケースが多い。

古くは、北の国から・・・ドラゴン桜もそうだった。
こつこつとビデオを借りてきて夫婦で夜な夜な見る。

だからちょっとタイムテーブルが狂っている。

今流行っている話題ではない話題に夢中になるのだから。
一般の人相手にはそれこそ話にならない。

けれど、僕の中ではトレンディなのだから周りはついていけないことこの上ない。
そこが面白い。
同じことを話題にしても何も面白くないだろう・・・くらいのものである。

とどのつまり、天邪鬼なのかもしれない。
と思うことも多少なりとも・・・ないこともない。

まあともあれ、
改めてみると結構はまりそう・・・

http://www.veoh.com/videos/v14957610FBcraYtR?source=embed

こういう観かたもあるのだ。

鈍行列車

友人の出張話を聞きつけ交通手段を調べているうちに・・・
ちょっとのつもりが、どっぷり深みにはまってしまった。

昔、名古屋や京都に出かけるには、
新幹線などという文明の利器を使用することはごくごく希なことで、
十中八九間違いなく、大垣行きの鈍行列車を利用していた。

何せ青春の貧乏旅行であったし、朝早くに目的地に着けば、
目イッパイ行動できる。
行動終えたらまた夜行で帰ればよいくらいに行き先も決めず動き回っていた。

おまけに夜汽車は旅情もいやというほど味わえた。

この電車ののよいところは、静岡を過ぎると快速になって実に快適だったこと。
平塚や小田原までは通勤客で混んでいるが、静岡に入るととたんに
長距離電車の姿に様変わりとなる。

小田原駅で通勤客を吐き出した車内は寒々するほど広々となるし、
車輌も軽くなったとみえて軽快な足音に変わる。

そのレールの音に誘われて、瞼が重くなる。
一車輌に数えるほどの車内となれば、どう転がろうが勝手なものだ。
ボックス席の向こう側に足を投げ出し腕を組んで寝る。
そのうち、上半身はシートいっぱいを使って寝っ転がる。
よくまあ、くの字になって寝れたものだ。

22、3才からもうすっかりのご無沙汰。
JRになって、もう全滅したと思っていた。

WEB時刻表を見ると・・・おや?・・・それらしき雰囲気の列車。

ちょっとクリックしてみる。

「東京ー大垣」これだ! なんと、
全席指定、快速ムーンライトながらとして生き残っていた。
http://hit.vis.ne.jp/nagara/cardia.html

そのうち試してみよう。

でも、全席指定となったら
もう荷物を山と抱えた行商のおばちゃんたちとの会話も、
地元の学生たちの方言も聞くことはできないだろうな・・・

お盆

昨日はお盆の入り。

と聞いてもピンと来ない諸氏も多いのではと思う。
社会生活上、7月盆はなんら生活に変化があるわけではないし(棚経のお坊さんは別として)、影響が見えにくいといえる。
実際は、盆踊りもあるし、花火大会もあるし、一連して精霊を慰める為のお盆行事のはずなのだけれど、「玉屋~~」といいながら、「○○さん浮ばれてね」と祈る姿はみないし、「踊り踊るなあ~ら♪」と踊りながら、「お墓のご先祖様また来年ね」とこれまた祈る姿は皆無だろう。

実際ぼくも仏壇屋の仕事を生業としているから頭にあるようなもので、
正直な所は月遅れの8月盆に軍配を上げたくなる。

せみ時雨と西瓜と蚊取り線香の匂い。
あきれるほど照りつける夏の太陽と青空。

今の若い人たちにどこまでそのイメージが通るかわからない。

故郷に向かって民族大移動が始まる時期。
都会が故郷のものには、カラッとした青空が帰ってくる日。

そんな姿が、お盆の姿かな。

店にいるとよく聞かれる。

お盆はいつ迎え日と送り火をするの?
何でお盆には7月と8月があるの?
という質問だ。

前者は簡単、13日の夕に早くにお迎えして、
16日の夕にもう帰っちゃうの?と別れを惜しみながら送る。

亡き人がありありと生活の中にいる。
考えると霊がいるいないとしちめんどくさい事をいう人でも、
現に霊を迎える行事なのだから何とも不思議な気もする。

後者は、ちとめんどくさい。

調べてみると、明治5年11月9日「改暦断行」という手法が明治新政府によって執行された。
これがそもそも混乱の元のようだ。
改暦ということは、関係のない日にちが突如として元旦に替わるということだ。
制度を変える時には、数年の準備期間を設けて、これでもかというほど注意深く変更するものだ。ましてや生活の根幹に関わる暦の問題である。
どんなに準備したとしても混乱しないはずがない。

改暦断行の年は明治5年12月3日を明治6年元旦とした。
しかも発表からたった一ヶ月弱での施行。

これはいかに無謀だったか
出す側の新政府側にも、受ける国民の側にも混乱を招いたか想像に難くない。

農耕民族には農閑期を迎える旧暦のお盆が丁度良い期間である。
まだ、梅雨も明けず農家には繁忙期の時期に悠長なことはしていられるはずもない。
急な決定であり、暴動すら起きたという。

急いだ理由に明治6年が閏年で一年が13ヶ月のある年ゆえ、
財政難の明治新政府としては一ヶ月給与を払わなくて済むことは万々歳だったのだろう。

とにもかくにも、明治新政府のお膝元東京市は、そのあおりで新暦のお盆に移行せざるを得なかったということなのだ。

それが今も習慣化し混乱の元をひきずっている。

農耕民族の血は今でも8月盆を求めているのかな・・・