雷門一之宮商店会

念珠堂前の通りをはさむ僅か100mのこの通りなのだが、
いよいよ商店会としてスタートした。

都営浅草線のホームから、ながーい階段をヒーヒー言って登り出口に到着する。
表に出ると、どういう印象を持つだろうか。
ぼくの古い記憶をたどると、
どこの裏道に出てしまったのだろうか、ここはあの繁華街のはずの浅草だろうかと
不安になった。

そんこんながきっかけで地元有志が集まりスタートが切られた。
初めの難関は、通りの名称。
行政的には区道○号線とあるのだが、まさかね。
区道○号線通り会なんて末代の恥だ。

初めタヌキ通り商店会のようにユニークな名を考えた。
この地に昔あった稲荷にちなんで、「お稲荷さん商店会」なんていう声もあったのだが・・・どうもピンと来ない。

そこで、雷門の歴史を紐解く作業を始めた。

行政の愚策のひとつに行政区分の効率化の為の町名変更がある。
新宿区には箪笥町だ鉄砲町だと、江戸時代さながら何がそこにあったのか連想できる古の名前が残る。
しかし、町名の統合は、無味乾燥の上に文化を失う危惧さえ感じる。
先祖との縦の糸がプッツンと切れてしまう。

浅草の旧町名をみると実に多彩だ。
駒形町、材木町、森下町、三間町、朝鮮長屋、真砂町、専堂坊屋敷、鉾屋敷、並木町、茶屋町、馬道町、花川戸町、山之宿町、猿若町、金龍山下瓦町、聖天町、狸長屋、田町、孔雀長屋・・・
と、じつに多種多様な歴史の香りがプンプンする名が連ねる。
今の浅草何丁目、雷門何丁目、東浅草何丁目・・・とは雲泥の違いを感じる。

明治初期の資料を見ると、並木町の一角につまり、今の雷門2丁目18番地先に土師長夷の宅地がある。
つまり、浅草寺ご本仏である1寸8分の観音像を奉った、土師中知(はじのなかとも・まなかち)の後裔がここに庵をむすんでいたのである。
土師中知の後裔を「専堂坊」(専当坊とも)とあり、浅草寺に承仕した。
権現思想の興隆から中知を阿弥陀仏を本地(本地垂迹説)とし、居宅内に奉ったと記録されている。

さらに言えば花川戸には檜前浜成(ひのくまのはまなり)の屋敷があり、
同じく齋頭坊。
本地は観音菩薩。

山之宿には檜前竹成(ひのくまのたけなり)の屋敷があった。
同じく常音坊。
本地は勢至菩薩。

それ故に、この三町を宮元三町会と呼んでいた。
残念ながら、明治4年の大火ですべて灰燼に帰してしまった。

話しを戻すが、
専堂坊のあった場所が、ちょうど雷門通りから南側に位置する地域で
四百六十三坪あった。
ちょうど、この通りが切れる少し手前までがその所領ということになる。
土師中知つまり「一之宮」専堂坊がちょうどここになのである。
古老しか記憶にないことなのである。

この縁(えにし)は後に伝えなければいけないと感じ
名を会の名に入れることにした。

ゆめ

夢をみた。

小学校3年生のときの担任のN先生の子供に涙ぐみながら依頼された。
「父は非業の死をとげたのです。
その思いを解決して下さい」。

N先生は、元特攻隊の変わり者だった。
母と同じ年のはずだから、志願兵でぎりぎりの出陣だったことになる。

沖縄戦(だと思う)で途中エンジン故障のため引き返し不時着し、そのまま終戦となり九死に一生を得た(無念の涙を呑んだ)。
復員し、代理教員となり国語の先生になった。

結婚したが子供に恵まれず、その愛情を余すことなくぼくらに振り向けてくれた。

熱血教師は、軍隊式だった。
宿題を忘れた、間違ったことをした等と言うときは男も女も差別なく、即ビンタであった。
僕は何度そのグローブのような平手を食らっただろう。

バケツを持って廊下に立たされた。

忘れ物をすれば、走って取りに行かされた。
職員会議で何度もつる仕上げをされたと後で聞いた。

じゃあ、よほど恐怖教室だったかと言えばそうではなかった。
休み時間には生徒の中にいつも溶け込んでいた。
生徒の話に反応して猿のような赤ら顔をさらに赤くし、細い目を目をくしゃくしゃにしながらいつも笑っていた。
子供たちは、畏れながらも先生の愛情が充分わかっていた。

帰り間際になると、教員になって覚えたオルガンを楽しそうに弾きながら、
「お山の杉の子」の歌を「昔々その昔、しいの木林のすぐそばに♪」と合唱した。
いつか会いたいと思っていた。

その娘の頼みである。
「父の非業の死」・・・何だと言うのであろうか。
彼女の口から事情を聞いて七つ整合性が取れない話を確認した。
僕が指を折りながらもう一度復唱したところで、
「チン♪」という甲高い音で目が覚めた。

息子が夜食がわりに牛乳を温めた電子レンジの終了音だった。
本を読みながらいつの間にか転がっていたのだ。

「あやつられた龍馬」「幕末維新の暗号」と謎めいた本ばかり読んでいるから、そのストーリーに染まってしまったのかもしれない。

もう一度寝ようと横になりはしたのだが、ふと思い出した。

恩師は、50を間近に念願の子宝を授かった。
女の子だった。
鬼が神になったと風の便りに聞いた。

一人娘。ぼくよりもちろん年下。
おや?そっくり当てはまるではないか・・・。

目が冴えて眠れなくなってしまった。

完成したみたい

東参道標注きれいにできました。
標柱の頭についていた、すずらん灯がなくなっていささか残念ではありますが。

阿弥陀さまの後光なたいだ

どうしても外に出ると、道を歩いていても、信号待ちをしていても
空が気になってくる。

風は乾いて気持ちがいいし、青はどこまでも蒼いし
雲は芸術的に展開しているし、つまらない芝居を観ているより
よほど芸術的に豊かさを感じる。

神様の創造のわざは 、ひょんとしたところに転がっている。

東京オリンピック

2016年の東京オリンピックを町を挙げて後押ししようとしている。

他にもやらねばならないこともあるだろうと、
個々にはいろいろ意見も分かれるようだが、単純にオリンピックを体感したいというのも正直な気持ち。

街灯に垂らす東京オリンピックのフラックも見慣れてきたのではないかと思う。

ニュースソースを調べていると、
時事通信社のHPに東京オリンピック前の東京近郊の写真が掲載されていた。
つい懐かしさに時間を忘れる。

62年というから、小学1年生のころだ。
浅草もこの様子。
現在でも正月ならなんとか似た風景になるけれど・・・この写真は9月。

http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-2700282&d=004soc

当然のように足にしている都営浅草線もこんな状況だった。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-2511964&d=004soc

平面通行が当たり前の時代。
ぼくにはこのほうがしっくり来る風景なのだが。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-2700271&d=004soc

http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-2706988&d=004soc
今ならさしずめ環境アセスメントでどうこうと問題視され、景観保持の観点から反対運動が起きそうな予感がするが、
当時は国土を変える事が当然の時代だったんだと今にして思うところだ。

進駐軍が都心の一等地に陣取る時代だった。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-4036391&d=004soc

しかも、防空壕まで。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-4149182&d=004soc

写真は時代の空気までを伝えるものだと感心する。

前回はまだまだ戦後を感じる中で挙行する意義があったのだ。
平和の祭典を意識し、戦争の陰を国内外から払拭するためのオリンピックだったであろう事は充分理解できる。

2016年のオリンピックに対しては少し認識が変わりそうだ。