勤勉の哲学

江戸時代初期の禅僧、鈴木正三(すずきしょうざん)は「萬民徳用」の中で
「人々の心の持ち方が自由になり、人々が心の世界の中で自由に振る舞うことができるようになるためならば、南無阿弥陀仏と念仏を唱えるもよし、座禅をしてみるのもよし、さらには、そんなことは何もしなくても、毎日、自分に与えられたそれぞれの仕事に、精一杯打込んで働いていれば、それが人間として完成していくことになる。」
と、世俗的な職業に励むこと自体が、仏道修行であると説いている。

商活動イコール仏道修行
農活動イコール仏道修行・・・

日本人の行動規範には、そうした仏道修行つまり人格形成の道が
その勤勉さと深くかかわっている。

お釈迦様の生きておられた時代には、出家集団である比丘や比丘尼がおられた。
と同時に、優婆塞(うばそく)や優婆夷身(うばいしん)の男女の在家者もいたわけで、お釈迦様の言葉はそれぞれに語られたようである。

しかし、現在に伝わる経と呼ばれるものは、釈迦入滅後、弟子によって編纂されたわけで、
在家信者に語られた言葉は、そこには表されなかったと記憶している。

戒にしても律にしても、出家者のそれであって、在家信者に向かっての言葉ではなかったことを考えると、職業を懸命に勉ることが、仏道修行であると明確にあることは
在家者にとって、何より励みになることなのだと思う。

近江商人の行動規範を作った石田梅岩の石門心学(せきもんしんがく)には、
商人が儲けを生むことの正当性をしっかり謳っている。

一番やりたくなかった商人を転換させてくれた古人の思想。
ふっと思い出した。

麝香(じゃこう)のお香

本麝香(じゃこう)を使用したお線香はなかなか見つからない。
よほど高価な香には若干含まれているようだけれど、
麝香と銘打つのは、なかなか今の時代、勇気がいるものだ。

入手困難なのだから仕方ないといえば仕方ないけれど、
ないとわかるとますます香りを聞きたくなるのも人情。

お客様の注文に応じ、
京都の香司から細いパイプで取り寄せて聞いてみた。

一箱は、お試し用にとっておくつもり。

ああ。なるほどね。
確かに麝香の甘さが他のベースの素材に引き出されている。

でも麝香が立ちすぎてもちょっときついかな。
僕には大観の伽羅と同時に焚いてみるのが、
よいように思った。

ここも人間社会

最近メールの確認に時間がかかりすぎる。

アドレスを公表していることもあるけれど、
メーラーにフィルターをかけても
飛び込んでくる300通を越すスパンメールを処理するのに
最近は辟易してきた。
海外からのメールもうるさくなってきた。

お客様からの大事なメールを読み落とさないようにと思うから、
読みたくもない下品なコピーも一応は目に障る。
どうせいやでも時間がとられるならその中からも、
人を惹きつける方法とは…
などと、コピーの秘訣を盗もうかとも思うけれど、
あまりの下品さに途中でいやになる。

人間社会である以上、表もあれば裏もある。
ネット社会も人間社会そのものだからこうなるのは
しかたないことだけれど、健全でないことは確かだな。

ネットいじめなんていうのもあるんだね。
まあ道具をどう使うかは、人の自由度だとは思うけれど…

でもそろそろ大人の段階に育っても良いと思うけれど。

観音菩薩

観音像を写仏されて送られた。
仲良くなったシンガポールのお坊さんからである。

真摯な修行のスタイルは、胸を打つものがある。

自らの血をしぼり書写された。

バーチャルタワー

浅草は朝からどことなく人が多い。
町がどことなく落ち着かない。

土曜日、当然と言えば当然なのだが…
とにかく落ち着かない。

落ち着かない時は、だいたい何かある時。

で、店を閉め買い出しに車で錦糸町に向かう。

普段なら人通りの少ない、言問橋、業平橋、押上近辺が
夜の8時近くになっているというのに人垣が切れない。

事故でもあったのかと心配したが、帰り道ようやく答えを得た。

都電柳橋車庫跡付近を走っていると川むこうに青い光が4筋。
光はかなり上空で交差していた。

新東京タワーの幻想タワーだったのだ。

数年先には、現実の鉄の塊が同じ高さで建つ。
間もなくALWAYS三丁目の夕日のような光景が見られるのかな。

宵闇の中に光の新東京タワー

和蝋燭

燭台の試験をずーっと続けている関係で
和蝋燭を何本も燃やし続けている。

こんなに和蝋燭を燃やし続けたことは過去にない。

でもおかげで和蝋燭の炎のよさを改めて認識させられた。

見れば見るほど、炎の高さと言い、揺らめきと言い
美しいなあとうっとりしてしまう。

これから、冬に向かって心がしぼむようなことがあったら
炎の暖かさに、心をなごませよう・・・

あ!そうか!

和(なご)む蝋燭だから、
和蝋燭 か。