写真展

浅草寺に出かけた帰り、公会堂前を通ると、
東京大空襲の資料展を開催していた。


数年前に一度覘いて見たことがあった。
当時は公会堂が改修される前であり、
見た目にもきれいな会場とは言えない狭い部屋に押し込められて
独特な雰囲気がただよっていた記憶がある。
今年は、広い会場を独占使用しているほど規模が拡大していた。

ちょうど昨夜、石川氏のドキュメントをテレビで見ていたこともあって
誘われるまま入館してみた。

日中戦争から太平洋戦争までの経過を入り口付近に展示されていた。

南京大虐殺云々の新聞記事まで説明していたのには、少々驚く。

展示写真の一枚、松屋屋上からのパノラマ
ランドマークがなければ比較できない。

住み慣れている町だけに、感じるところ大。

写真点数が多くて
悲惨さを伝えるには成功しているように見えた。

三月十日ひとまわり

駒形橋から上流を望む。

キリンビールのモニュメントに対比して、その足元に位置して
その碑はある。

関東大震災の子供たちの殉難者をまつったものだが
今日は、花で埋まっていた。

東武線橋梁の向うに浅草の対岸が見える。

墨田区側から言問橋を望む。
この川面が人で埋まったというのだから・・・

言問橋のしみは人のしみと言うのだけれど・・・

考えられないことだがそうらしい。

仮埋葬された言問橋際には慰霊碑がひっそり建っている。
普段は・・・この日でも気付く人がどれだけいるだろうか。

ぼくは、この際に住んでいたから、子供を連れてよく来ていたが
地元の人でも、この空襲殉難者の碑を知るひとは少ない。

東京大空襲

ここ浅草に住んでいると、戦争の遺構や物語に出くわす機会がめっぽう多い。
華やかな町であるから、対極にある悲しみがなおいっそう特出するのかもしれない。

毎月初めの朝、浅草寺の掃除を慣行としているが、
掃き清められた境内にたつと銀杏の木には今なお空襲の爪あとが色濃く残る。

桜の名所の墨田公園沿いもさばききれない焼死体を仮埋設した。
乱痴気騒ぎの足元にそうした歴史があったことなどどこ吹く風。
片隅にそっと大空襲殉難者の碑を見つけて欲しい。

言問橋はさらに著しく被害の多かった場所。
焼死された人の跡が長らく残ったという。

つい最近ポーランド帰りのSさんの話を聞いたばかり。

決して許さないポーランド人の戦争への姿との違いに、
複雑な思いでここしばらくは過ごすことになるだろう。

http://www1.ocn.ne.jp/~susuma/bombing/bomb.htm

陀羅尼品と南無妙法蓮華経 

もう1本完成。
白檀尺四玉に陀羅尼品と南無妙法蓮華経を彫りこみました。

全玉、彫り字が異なるのは、結構大変です。
親玉も完全オーダーです。

苦心の1連です(自分で言うのもなんですが)。

表装

先日お預かりした観音の写仏の軸装が完成しました。
青系統の緞子仕立て。
思ったより落ち着いて見えます。

金襴表装もいいけれど、
緞子も多色あって面白い仕上がりが期待できます。

元絵はこちら。
表装をすると全く別物に見えます。

三人乗り

書こう書こうと思っている間にもう古い話題になっているみたい。
情報の速さに唖然とするばかり。

自転車の三人乗り。
意見が二分されるのは当然として、
実際、子供が複数いる家庭は大変なんよ。

歩いていける範囲(何キロでも歩けと言えば歩けはしますが)に
保育施設がある地域はいいでしょう。
徒歩で充分と言う場合も確かにあろうとは思う。

けれど、2人3人の幼児が年子であったなんていう場合
どうしたらよいの?しかも子育てと仕事は毎日のことである。

子供が産まれて近くの保育施設を希望してもすぐに入所できるとは限らない。
僕のつたない経験では、長男が1.5k先の市の施設、次男三男が近くの施設。
と別れて1年間預かってもらった。

健康なときは上さんと二手に分かれて預けに行けば済むことだが、
人間調子のよいときばかりではないのだ。
一人が欠ければ背中に一人、前カゴに一人、後ろに一人と四人だってこなざざるを得ない事だってある。

責任論がどうのという議論もあるけど、現実無理です。

ただ、歩道を重戦車のごとく快走することは控えなければならないのは
3人乗りに限ったことではないが。
自転車の歩道走行はそもそも、緊急避難措置なのだから

毎年5~600人の子供の自転車事故があると聞く。
そして警察は3人乗りに関して黙認であったともいう。
保育施設の拡充を叫ばれても、遅々として進まない現実。

女性の社会進出は見切り発車なのだ。

それにストップをかけようとするんだもの。無理ですって。

そして、自転車メーカーの怠慢さ。
「売れないから」が一番のネックで新車開発をしてこなかったと見る。
販売効率の壁。

時期尚早というのならいざと言う時のために研究、
試作してこられてもよかったのではないのかな。

海外にはこんなのもあるのに。
http://myzigo.com/index.html

今がチャンスなのだが・・・

条件付許可ってなんだろう・・・
また曖昧に終わりそうな気配だなあ。

民族ってなに

お昼近くに思わぬ・・・(いや、仏教的には思っていたからこそなのだが)
S師ご一行のご来店をいただいた。
ポーランドから帰国され成田から直行してくださった。

僕もp-ランド、アウシュビッツへの旅を誘われて、その気で調整をしていたのだが、
土壇場でいけなくなった。
いわゆるドタキャンだった。
供養?の旅からの帰還だった訳である。
行けなかった身としては、一行に毎日、安全であるようにとの念のみの参加のつもりなのだった。

もう帰国の頃と頭にあるにはあったのだ。
「ちょうどさっき帰国した」のだという。
成田からここ浅草にその足でいらしてくださった。

お顔を見て、思わず驚きの声を飲み込んだ。
やはり驚きが先にたつ。

まだ、旅の空気を漂わせながら、
現地ホヤホヤのお土産と旅のエポックを話してくださった。

ポーランド人の現地ガイドさんが案内をしてくれたのだという。
話しを伺うにつれ、考えさせる旅であったことは理解できた。

日本人、少なくとも僕自身のポーランド観、アウシュビッツ観に変化を与えた。
若いときに地政学の本を読んでポーランドの歴史を知った。
なんてかわいそうな国だろうか。率直な感想だった。
国という体裁すら失ったのだから。だから民族の誇りを扉の奥にしまいこみながら時間の経過を待たねばならなかった民族。

以前、小松左京の「日本沈没」という小説が流行った。
日本を巨大地震が襲い、日本と言う国が消滅する話しだ。
ベストセラーとなり映画化もされた。

作家はこの本を書いた真意として、
「国を失ったことのない日本人がもし国を失ったらどうなるのかと言うことを描きたかった」と何かの折に話していた。
現行の漫画にもジパングと言う本があるが同じような観点で描かれている。

世界の中に日本人が放り出されたとき、日本人は民族としての体を果たして持ち続けることができるであろうか。

ポーランドは、徹底した破壊の町から復興した。
それも近代的に復興したのではない。
破壊される前の街並み、石畳、ブロックのひび割れまで復刻した。
保存しようとするその情念には驚かされたものだった。

今回、S師の話を伺い、実はそんなきれいごとでは済まされない、もっと奥深いモニュメント的意味合いがあったのではないかと充分に想像される何かを見た気がした。

やはり、今回ご同行できなかったことが悔やまれた。
現地に行って現地の目線で見、考えてみたいものである。

お墓用のローソク

お墓用のローソクは、以前も(まだあるかもしれないが)取扱いはあった。
けれど、長くはつづかなかった。
何故か。燃えすぎたのだ。風で消えてもまた時を置いてついてしまうのだ。
これが長所であり短所だった。

こんどは、そんな特殊な原料を使うわけではない。
とにかくぼうぼう燃えるというので実験をしてみた。

燃えはじめは普通のローソクの顔。

ほんの10秒ほどで正体を現した。
ぼー!


部屋の中で燃やしたものだから、慌てる。

フ~~~!

消えまへん。