想えば・・・

若い頃から、霊能者、行者と呼ばれる方に好まれた。
若い頃というのを幾つから呼ぶのかわからないが、
記憶にあるのは、小学校低学年。

大好きだった大家のおばあちゃんの家に時々来られていた
日蓮宗の行者さんにすこぶる可愛がられた。

今の仕事を始めるずっと前には
藤沢の霊能者のおばあちゃんにこれまたすこぶる可愛がられた。
この方は、病魔というのは具体的な形のあるものだ。
患者に潜んでいるのがだとよく話していた。
その方面の力のある方で、乞われて全国を飛び回っていた。
エクソシストの大嫌いなぼくは、半分耳を閉じていた。
聞いている当の本人は、話が空中を飛んでいたのだが
それでも、「頑張りなさい」と励まされた。

今の仕事をスタートすると、
真言宗や天台宗のお寺さんには、特に行者さんとは話が弾んだ。
実際は詳しい話しは全くわからない。

けれど、話をしているうちに、相手の光景が目の前に次々に展開される。
その光景を見ながら、感じるところを包み隠さず評価する。
ただ、それだけなのだが。

初めは、ギクシャクしている仲も店を出る頃は身内のような感情に変化する。
何故かいつのまにか離れがたい存在となっている。
長くお付き合いさせていただいている方は、
ほぼ似たりよったりの出逢いである。

そう考えていると、僕の話術や性格によるものなどとは
とうてい考えられなくて、
先祖の見えざる資産に感謝せざるを得なくなる。

三開仏

一見、木の棒にしか見えない。

何だろう・・・

そこで、金具を開放すると、本尊と脇仏が現れる仕掛け。
この場合は大日如来と不動明王、弘法大師となる。
もともと旅に出るときに持ち歩くものが原点のようだ。

いかに江戸の民は信仰心溢れる生き方をしていたのだろうか。

これくらいの大きさ、つまり手のひらに入る大きさくらいになると、
案外彫りの甘いものが見受けられ、気に入った対象を探すのに苦労する。

それなら彫ってしまえ。というのがもともとの動機。
試し彫りで終わってしまっている。
続かなかったけれど、こういうのも彫れるという結果は出た。

今度はさらに小さいものに挑戦している。

納得

宿題となっている仏像製作で壁に当たり、
頭がパンパンになっている。

製作対象の資料が全くといってよいほど見当たらないのだ。
相手が、霧の中にあって想像の域を超えないとなると、
残るは「想像力」「独創力」と言うことになってしまうのだけれど、
なんとかそれは控えたいと思うからなのだ。

本体に忠実に創りたいと考える。
待たせる相手がいる以上、
常識の範囲での期間内に何とかしたいのだけれど、
すでにそれも超えてしまっている。どうもいけない。

でも、納得のいくものに上がらない以上は表に出せない。

祈りの対象になる以上、
ぼくも中途半端には終われないもの。

彫る側からは、彫りなおしばかり命じるから
嫌われ者になっているけれどしかたないか。

今日から10月

一日は、お決まり浅草寺のお掃除。

地元の商店主の集まりだったのだけれど、
高齢化して一人減り二人減り。
いつしか倫理法人会の人たちが増えて、倫理の朝起き会みたいになってきた。

横浜にいたときは何度か参加したこともあったから
ちょっと、空気は似てくるものだ。

雨もすっかり上がって、しっとりとした境内は
これから多くの人を招き入れる準備のようだ。


伝法院は、さすがに独特の雰囲気を持つ。


おにぎりは、掃除後に出るのです。

もう正月…!?

早いもので、もう10月の声を聞く。

となると、気持ちは正月をどう準備しようかという気持ちに切り替わる。
もう正月?といぶかしがられるところだと思う。
  クリスマスもあるよともいわれるだろう。

けれど、もう気持ちは、来年に走っている。
元旦からの営業を開店以来、欠かしたことがない。
初めの頃は除夜の鐘を聞いて年越しのおそばを食べ終わる頃から
再度店をオープンし、薄明るくなるまで続けたものだ。

え!仏壇屋が?

聞く人は、いつも驚かれる。
そこまでするの?とも言われる。

実際、この時間の営業は、仕事にはならない。
むしろ経費のほうが膨大で赤字になる。

人は、浅草寺の喧騒に疲れて、檀を求め一息つきたくて入店した。
だから、ホッとして出て行かれる。
売上げにはほとんどつながらなかった。

けれど、それでも良いと思いながら店を開けた。
なぜなら、一年にこの日この時間のみしか
お逢いできない方が大勢いたからなのだ。

北海道から、九州から、福井から、新潟から…
「またお逢いできましたね」
「また来年ね」
その声に後押しされて一年の力となる。

効率という尺度で考えるならば、
これほど非効率このうえないこともないだろう。
何のための営業?
「一人のお客様にお逢いしたい為」なのだから。

これが商売かと問われたら、当時なら
「商売をやっているんじゃない」と答えただろう。
今ならば、僕スタイルの「商売」をやっていると答えるだろう。

「効率」「効果」仕事をする上で常に頭をもたげる言葉。
だけれどどうなんだろう・・・

脱線してしまうけれど、
「機能美」も突き詰めると美しいといわれる。
確かに幾何学的であったり、黄金率敵に美しく見えてくるのは確かだと思う。

けれど、僕みたいにいい加減な人間には、そこに長居したいとは思わない。
人の呼吸を受け止めて、呼応する美が好きだ。

sと奪いをやtっていて金銭を生み出すことが効率の第一目的というのは、
今でも疑問を感じるのだ。

何においても経済効果を大前提に換算する風潮がある。
それを否定するわけではない。事務方がおさえればよいことくらいでよい。
出た結果を責任者が知ればよい。

けれど、なんぼ儲かるのか。上から下まで関心の中心。

要するにおいしかったのかおいしくなかったのか…
と言っているようなもの。
どうしても下品に見えてしかたがない。

むしろ、事業の効果として、結果として、
「人が幸せになったのか?」
を尺度として使えないものだろうかと思えてならない。
「幸福度」が効率の中心課題。これはいい。

いくら、儲かろうが、経済効果が高かろうが、
一人でも不幸が生じれば、また、一人の不幸を当然と考える事業ならば、
事業計画そのものが間違っているのである。

「非効率の効率」ということも
仕事の上にあってもいいので…
いや、なくてはならないのではないだろうかと考える。