向学心

念珠直しは、僕にとって格好のアイデアの素となる。

人が変われば、考え方も変わる。
作り方も、手順も、玉の選びも。

感心したり、畏れ入ったり、
「人の振り見て…」も、けっこう多いが、それはそれで
次に作るときの肥しになる。
経験値は唯一の財産なんだ。

取引先の営業マンに、
若いけど宝石の鑑定士の資格を持つ者がいる。
アメリカまで学びに行っていた。

「いいね、基礎ができているから」
と投げかけると、
「経験にはかないませんよ」
ときた。

そうね。経験だけは人一倍してきたけどね。
とは思いつつも…
学生に今一度戻れたらなとの思いを、
本音のところには、消えることなく温存しているのだ。

巡拝軸の横軸

マンション生活には、床の間がない。
(神の寄る床がないなんて建築屋さんなんとかしてよ)
すると、どんな立派に仕立てても、祀る場所がない。

誰もが考えてしまうポイントだろう。

結局、空いている壁に吊り下げることに
ならざるを得ない。

そんな現代の住宅事情には…
横軸

表装も生地によって
イメージは全く変わってしまう。
いつも金襴ばかり目にしているから
緞子(どんす)で表装するのも素朴でいい。

かみなり!

時ならぬ稲光に飛び上がった。

それなりに心の準備が整ってからにしてね。
座っていた椅子からずれ落ちた。

滝のように雨は降ってくるし・・・

危うく自転車で出かけるところ
ぬれねずみにならずにすんだ。

さっきの浅草の空を見てくださった方は、
不慮の雷と雨に遭わずに済んだでしょう・・・きっと。

浅草の空

暗いなあ。
秋の長雨の雰囲気?

秋に向かってのプロローグと思えばよい。
だんだん涼しくなっていくのか…

秋…

なんだか、おなかがすいてきた…

文化の秋は程遠い

十一面観音と

難波敦朗氏画の墨絵。
正しくは十一面千手観音菩薩だが、
開店のとき記念に頂戴した絵だ。

仏画が好きで30年、事あるごとに見てきた。

気が付くと、十一面観音が、
あるときやたらと身の回りに多いことに気づいた。
気づきがめばえると、輪をかけて意識しだすようである。

正面のみから眺めるのではなく
横は当然のこと、真後ろも見たくなる真上からも
真下からも除いてみたくなる。
国宝だ重要文化財だというだけでなく
お寺にあるものですらひっくり返すわけにはいかないのだから、
ないものねだりと言わざるを得ない、
だだっこのようなものであると心得てはいる。

さておき、どうして十一面観音に心が惹かれると
心の奥底で感じていてもほのかな恋心であって、
誰に口にするわけでもなかった。

「あなたは十一面観音様がお守り下さっていらっしゃるわね…」

と、霊感の強い尼さんやお坊さん、霊能者と言う方々から
続けざまに言われたことがある。
口裏を合わそうにも、それぞれ僕を通じてしか全く面識がないのだから
どう疑ってかかってもどうしようもない。
語られた言葉は、事実は事実なのだ。

八方に目を配らないとならないか…
千手まで増えちゃったから、
隅々まで手を尽くさないといけないということか…

などと、思い込むことにした。

10年前の話だ。

このあとネットの仕事に手を出すことになり、
文字通り昼夜関係なく動き回ることになった。

最近、日蓮宗の行者さんに
「この絵は、心がはいっているなあ…すごいよ」
と、久しぶりに感動の声をいただいた。
そして「がんばってね」

どうやら…
まだ暫くは、休ませてはくれないようだ。

縁 

子供の授業参観に来ると、
窓の外がやけに騒がしい。

近くの窓から覗いてみるとJRの線路際。
行き来する電車がその原因だった。

そうかと目を左に移してみると広大な墓の波。

寛永寺霊園越しに寛永寺が遠望できる。

窓を開ければ、霊園と寺。

どこまでお寺に縁があるんだろうか・・・

修理品 

光明真言の念珠。
プラスチック製。

四国番外札所(二十ケ寺)を廻ると手に入る念珠玉と
同じ作り方をしている。
四国の場合は、表に寺名、裏面に番号が入っているので、
難なく組みやすい。

が、こちらは梵字のみ、しかも、
バラバラになっていてさっぱり判らない。
梵字が型押しで作られたあと、
クリアーのプラスチックを流して埋めたものなのだが、
梵字にくせがあるのと、金型のエッジがたっていないためだろう、
不明瞭で、老眼の進みつつある目にはつらい。

フツフツ何やらざわめいてくる。
平常心を取り戻しつつ
これも修行と心を入れ替えて…

にらめっこすること1時間。
オン.ア.ボ.キャ.ベイ・・・

「オン」の字がピカッと光るではないか。
と、思ったら
あとは、するすると謎が解けた。

不思議だこと。

ようやく、なんとか形になった。

共に生きる

「この間、脳梗塞やっちゃってね…」
「足が上がらなくてね…」
「腫瘍が見つかっちゃってさあ…」
「最近、老眼で目がみえないのよ…」
店に、訪ねてくださるお客様との会話。
すこぶる多い健康の話題。

黒々としていた御髪は、すっかり初冬の富士のように白くなり、
つやつやのお顔も、深く年輪が刻まれるようになり、
僕を誰かと違えて話こんでみたり、
20年、30年前には、若々しくいたお客さまも、
時の経過は容赦なく等しく、老いというレタッチを加えている。

仏壇という商材相手ゆえに若いときは、
背伸びをしながらの会話が多かった。

足が痛いというのは、どう痛いのか。
目が見えないとどういう心持ちになるのか。
足を引きずってみたり、目に幕を張ってみたり、
実験したり想像しながら、お年寄りの心痛に同調できるよう努力した。

可愛がってくださった大先輩たちは、
順次世を去り、現役を退く年代になった。

まわりの様相も変化した。
会話していてもどんどん等身大の内容に変化していた。
努力するまでもなく、痛みは痛みとして、
つらさはつらさとして、自分も感じるような年齢になっていた。

「諸行無常の響きあり」と詠われているとおり、
天体からミクロの世界まで、変化しない物は、
何一つないのであって、老いさらばえるのは当然の事なのだ。

変化しないものがあるとしたら、
それこそ妖怪変化の口だろうと思うのではあるが、
僕の感覚の中には、実像が存在しなかった。

心のどこかに無常を受け入れていない部分があったのだろう。
これも執着か…。

人の振り見て…で、
上さんとの会話に「あの芸能人ふけたねえ」なんて言おうものなら、
「大して変わらないよ」おまえも鏡見てみろとばかりに、
たしなめられてしまうわけで、
「時」というレールは同じ向きに敷いてあることに気付かされるのだ。

自然の移ろいを当然と受け入れるように、

青春から朱夏となり、過ぎれば白秋、黒冬に移る。
刻まれる年輪もごく自然のこととして受け入れ、
ともに成長するお客様を鏡として、受け入れていくことが楽しみとなる。

これが商売の妙味かなと少し感じるこの頃だ。