左:苦行像 右:愛染明王
どちらもミニ仏です。
弥勒菩薩に見られるように単純な線で表現するものほど
難しい・・・・・・!
ガンダーラの苦行像にどこまで近づけるだろうか…
左:苦行像 右:愛染明王
どちらもミニ仏です。
弥勒菩薩に見られるように単純な線で表現するものほど
難しい・・・・・・!
ガンダーラの苦行像にどこまで近づけるだろうか…
十三仏は、亡くなられて初七日、
ニ七日(ふたなのか)…
七七日(四十九日)一周忌…
と、それぞれを供養する仏様を一堂に会していただいたものが
十三仏。
ほとんど絵像(掛け軸)が一般的。
十三仏を仏像でそろえるというのは、
あまり聞いたことがありませんが・・・
あえて、仏像で表現すると…
こうなりました。
二天門通り浅草寺に向かうこの参道は、戦後変化した。
特にこの通りは顕著なのではないだろうか。
都電の電停もこの入り口にあって乗降客に利していた。
戦時中に商店街全てに疎開命令が下り、
通りは一変したようだ。
二天門まで百数十メートルの参道ながら、
今は観光バスの常駐するような閑散とした通りとなってしまった。
昔は土産物屋が軒を並べ、参拝客の滞在を促していたであろうに。
最近の話題は、この通り右手に、新東京タワーが誘致されるはずだった。
残念ながら墨田区に譲りはしたものの再考が望まれる。
すずらん灯も時代を感じさせる。
若い人にはかえって新鮮に見えるかもしれない。
未だに参道入り口を示し続けているところが、
胸にキュンとくる。
柱部分に「昭和三十三年再建」とある。
僕が3歳の時に再建か…
この年に空襲で消失した、本堂が再建された。
それにあわせて再建されたのだろう。
人工石の表面のコンクリートは洗い剥がされ、
時の経過をしっかり伝えてくれる。
ややもすれば、気づかないで通り過ぎてしまうだろう。
この通りが、川岸から石畳で二天門まで整備されたらいい
プロムナードになるだろうに・・・
と思うのは僕だけではないだろう。
浅草サンバカーニバルも今年27回を迎える。
すぐに消えちゃうかと思っていたが、
歳を追うごとに盛大になってきたようだ。
もともとは、パーカッションや太鼓の響きは、
大好きなBooなのでありますが、何でここ浅草でサンバなの?
と不思議でならなかった。
NHKで放送された「世界遺産」の番組を見て、
http://www.nhk.or.jp/sekaiisan/card/cardr083.html
認識を少し変えさせられた。
番組は、世界遺産、サルバドールを舞台に
サンバカーニバルをレポートしていた。
16世紀に始まったポルトガルによるサルバドールへの奴隷の入植。
アフリカでは部族が異なると、神も言葉も違うのだそうだ。
奴隷として連れてこられた、この新大陸にあって、
営まれ続けた部族を超えた神への儀式がひそかに続けられた。
そこでは部族も言葉の違いも神の違いも全て超越し
強い連帯が生まれていった。
ニューファミリーの形成だった。
そのとき刻まれるリズム。
それがサンバの原型なのだそうだ。
悲しい文化ではある。
同時に現状を受け入れ明日にどう希望をつなぐかの
力強さも併せもっていると感じた。
土着の信仰から、キリスト教への改宗が進んでも
そのリズムを捨てることはなかったという。
逆にミサの中にそのリズムがつながれていった。
いつかキリスト教と結びつき、今に伝わったというのだ。
リズムの中から他人同士でも一家族となる。
というのが根底にある。
そんな深層部分があったのか・・・。
あ!なるほど。
信仰の町浅草、
日本中、世界中から人の集まる浅草で
カーニバルが行われる意味が少しばかり理解できた。
横浜に住むお客様のO様からお礼のメールと
お嫁入りした姿を見て下さいと写真が送られてきた。
まだ、嫁入りしたばかりの新鮮さがのこり、
ちょこんと仏前に置かれていた。
不思議な感覚だ。
はやく、馴染んで欲しい。
総高7cmの摩利支天
ミニ仏だけれど彫りは精密だ。
つい先日のブログに「病は気から」と書いたばかりなのに
風邪をひいてしまったみたい。
ここ十五年近く風邪らしい風邪はひいた例がなかったというのに
ちょっと喉が痛いなあなどと言っている間に
みるみる熱が出てきてしまって、ついにアウトととなってしまった。
何度かそれらしい兆候はあっても、
「病は気から」を実践せんがために押さえ込んできた。
実際、押さえ込めてこれた。
が、が、が、熱まで加担してきたら、もうアウトだ。
昔は、玉子酒をくっと呑んで、
一晩布団に挟まれて大汗かけば、ケロとできたのに
まだ、熱を引きずっている。
病で気まで落としたくない。
こんな日は、今日でしか逢えない人がいるものさ。
さあ。一日頑張ろう。
指折り数えてみた。
僕の周りでお坊さんになった、つまり、受戒得度された方が、
何人いらっしゃるだろうかという思いから。
なんと、
両手に余るほどになっていた。はたと気付いた。
中には、僕が十数年前巡り合せがよければ
得度するはずだった師匠の下でお世話になっている方もあった。
いつもながら、縁とは不思議なものよと思わされる。
以前は、毎月の行事のように関西の往復を繰返していた。
当時の僕のこと、宿に泊まる事はまずありえない。
夜行日帰りという汽車の旅は昔よくしたところだが、
文字通り、車で夜行で出かけ、一日フルに動き
夜中の東名を走り朝浅草に着くというものだった。
もちろんその日から店頭に立っていた。
そんな強行軍の中でも必ず比叡山に立ち寄るのが、常だった。
体さえ病に冒されなければ、座主になられたであろうその御坊は
坂本の麓に居を構えておられた。
住職として住みこむまで、廃墟であったその院坊は
主の心を反映して、清楚ながら暖かいものを感じさせる
そんな佇まいだった。
また、伺うたびに四季折々の変化を見せて
目を楽しませてもくれた。
御坊は、生きながら死の行と言われる荒行12年籠山行を、
戦後初めて完遂した方であった。
行を終了した時点で、体からは、死臭がして
周りを驚かしたそうだ。
なのに、
「心はますます仏への帰依の心が
らんらんと燃え盛っているんだよ」
と、よく話してくれた。
熱烈な信仰心抜きには考えられない荒行であった。
しかし、そんな凄まじさを微塵も感じさせない笑みをもって
いつも僕を向かい入れてくれた。
住職が亡くなられて暫くたつが、もう何年出向いていないだろう。
お客様の一人に
その孫弟子として得度された話を偶然にも耳にして
「忘れるなよ」と、ポンと方を叩かれた気がした。
驚きよりも、「あ~そうか」と
結論を以前から予想していたような思いで充満させられた。
坂本はもうむし返るほどの緑の中だろう。
小さいシリーズだけれど
バランスは抜群にいい。
父親が逝った歳に近づいてきた。
3つになったばかりの秋に逝ってしまった父親の面影は
おぼろげにも覚えていない。
かわいそうにも思うが、脳みその海馬の奥底にしまいこまれて
回路すら消えてなくなっているようにも思われる。
「片親じゃ大変な時代ね」と思うのは、
当時を生きた人ならきっと判ってくれると思うが、
それは育ててくれた側の話しで
子供の側は、いたって現状を受け止め楽しんでいた。
ありのまま生きているものである。
なまじっか記憶の断片があると、
感傷に発展する種となったであろうから、
記憶が全くなかったというのはある意味、幸いした。
都内のY大学を昭和初期に卒業し、大学に残ることを勧められながらも
野心家の父は企業家の道を進んだ。
結果は事業は見事に大成功を収めたが、
補佐役の身内の裏切りと、
元来の人の良さと気風のよさは多くの負債を背負い込む結果となった。
惨憺たるものだったようだ。
結果、会社をたたむこととなった。
母と出会う頃は、残光に照らされる中での結婚だったようで、
程なく無職の生活を余儀なくされたようだ。
その直後、僕は生を受け、
バトンタッチするかのように父は彼岸に逝った。
「父の轍は踏んではいけない」
そう薫陶を受けながら育ち、
経済とはかけ離れた技術屋の道を選んだ。
はずなのだけれど・・・
気づくと、父の背中を追いかけている自分を発見する。
「親はなくとも子は育つ」とはよく言ったものだと思う。
注意注意しながら、育てられながらも
ちゃんと父の轍(わだち)をきっちり踏んでいるのだから。
たとえ、口で教え込まれずとも、生を与えられた「動機」は、
きっと母の胎のなかで醸造され、
言葉ではない形を持って受け継がれていたのだろう。
しっかりと心に組み入れられているように信じる。
おかげで、人の良さと、義憤を感じる心はどうしようもできない。
何度、大口のお客様やお寺とぶつかってきただろう…
理不尽には耐えられない。
でもしかたないと諦めている。
損得では動けないのだから。
自分が彼岸に渡ったら、父になんと言ってもらえるだろうか、
そんなことを、若干なりとも考えるこの頃なのだ。