店が閑散としているときは、すかさず手を動かす。
昨日とは打って変わって、お客様が少ない。
今できることは、今やらないと。
あ、そうだ。S女史の…
店が閑散としているときは、すかさず手を動かす。
昨日とは打って変わって、お客様が少ない。
今できることは、今やらないと。
あ、そうだ。S女史の…
今日は・・・
昨日とは、打って変わって店は暇。
何故か自分だけがバタバタしている。
こんなときでもないと、できないことが山積みだから
仕方ない。
こんなに春の雰囲気が漂っているのに
風は、北西の風。
つめたーい。
さぶーい。
友人のCDを探しに、近くのレコード店に行った。
タワーレコード一位という実績を持つユニットなのに、
インディーズは注文受けないとか…
「固いこというなよ」と心に棘を持ちながらも
浅草らしいと言えばらしいか…などと
早々に諦めた。
浅草を離れて探すとしよう。
示現会の影響は、大きかった。
堂上げ、堂下げは今日ではなかった・・・
以下のとおりでありました。
浅草神社本社神輿
3月24日(土)「堂上げ」
午後6時05分浅草神社神職神霊入れの儀斉行
午後6時50分神社発進本堂前に移御
午後6時55分本社神輿三基 浅草寺本堂前に到着 本堂御扉開扉
午後7時00分「堂上げ」開始
午後7時30分浅草寺一山式衆読後、手締めにて解散
3月25日(日)「堂下げ」
午前11時10分浅草神社宮司祝詞奏上、浅草寺一山式衆読経
午前11時30分「堂下げ」開始
午前11時45分「堂下げ」終了
午後 4時00分本社神輿三基浅草神社へ還御し神霊返しの儀斉行
今日は示現会
推古天皇の御世、西暦628年大川(隅田川)から
地元漁師の網によって示現したとされる。
1400年近く前のその日なのである。
http://www.nenjudo.co.jp/page/sennsouji%20.htm
三社祭りも本来ならこの日に行なわれてしかるべきなのだろう。
まあ象徴的に、本社神輿が本堂にあがる。
これが見ものだ。
これなあんだ?
怒り顔
泣き顔
笑い顔
まあ・・・
さまざまだわ・・・
答えは・・・
これ。
ん?
まだわからないって?
種です。
そう。
オリーブの種の輪切りでした。
れっきとした念珠になります。
何の花だっけ。
いまだに植物の名前が覚えられない…
好きなんだけどねえ…
ぼやく。
そんなぼやきにめげることもなく
通りは、花で埋め尽くされる。
どうでもよいが、今日、雪が降った。
忙しかった。
否。
忙しいing。
なのである。
結局、お昼は4時間ずれてしまった。
もうあきらめてもいい時間だけれど。
否。
諦められない。
意地でも食べてやる。
で、たちそばをかっ込んできた。
カレーうどんにしようかしらと、一瞬、脳裏をよぎったけれど、
ねずみは、食べたくないと、
心がブレーキを踏むことになり、
今日はおとなしく、好物のそばのみとすることにした。
今度の18日の日曜日は、浅草観音示現会。
そう。
本来この日が三社祭りであるべきの日である。
何故なら、628年大川(隅田川)から、1寸8分の金色に輝く観音像が地元の漁師、檜前浜成、竹成兄弟によって川に打った網にかかった(示現)日だからである。
予報をみると、ちょうどその18日、示現会の日が桜の開花予想と重なる。
桜のもとで、観音様の示現を慶ぶなんて、めでたいなあ。
けれど、今日は寒ーーーい。
僕が仏具店のまね事をはじめたころ、
まだ世の中は、好景気の真っ只中だった。
仏壇は置いておけば飛ぶように売れた。という時代は
とっくに過ぎてはいたようだが、
まだ、バブルの余波を受けて、国中がまだまだ乱舞し
業界もまだまだ鼻息の荒い時代だったようだ。
ただ、土地神話は気をつけなさい、
という言葉もちらりほらりと聞こえてきてはいた。
当時の電話帳を見れば、
1ページ広告1/2ページ広告などこの業界の老舗たちが
ページを飾って、如実に景気を物語っていた。
僕はといえば、
資本も売り先もない中で、船出してしまったわけで、
広告を打つにも、チラシ1枚作るにも元手がない。
そんな、帆一枚で荒海を越えるが如く、無謀な舵取りだった。
ただ、唯一の財産は、後先考えない若さがあった。
情熱と、念珠つくりの技術だけは蓄積していた。
(もちろん技術は見よう見まねで盗んだのである)
そして、とにかく人が好きだった。
10坪にも満たない店には、仏壇を置くスペースなんて
猫の額どころか、ねずみの額ほどしかなかった。
でも、そうした環境が幸いした。
当時、念珠や、香は、他店では、
仏具商として体裁をたもてばよい商材だった。
店の隅に申しわけ程度のつけたし商材であり、
1円単位の利益なんて、必要のない利益だった。
どーんと仏壇で利益を確保すればよかったのだから
3割4割引きで売られる店もあった。
そうした脇商品を、あえてメイン商材としてスポットを当てた。
正確には、「当てざるを得なかった」と言うのが本音でもあった。
もし、それ相応の店舗広さと資金があったとしたら、
「念珠堂」という名前すらなかったかも知れない。
他を見渡してみても、そんな店は、当時一軒もなかったと記憶する。
高額な仏壇が飛ぶように売れるそんな時代に、
あえて、手間のかかる利益の薄い商材を、
メインに選ぶなんて、気が知れないというところだろ。
すぐに消えてなくなると思われていたかもしれない。
自分に恐怖感はなかったかといえば、うそになる。
けれど、それ以上に、「自分にはこれしかない」
切羽詰った、どん尻の開き直りがあったし、
若かりし頃、生死の境をうろついたとき、
生きた仏教には、逢えなかった苦い思いを
念珠という手ごろな法具に賭けてみたくなっていた。
今に至った。
「もうだめ」が幾度あったか知れない。
が、そのつど不思議な出逢いによって、必ず救われてきた。
筆舌に尽くせないと言う表現があるが、文字通りなのだ。
法具を意識させていただいてきたおかげだろうか。
さてさて、今日は、どんな出逢いがあるだろう。
最近、夜更かしが続く。
といっても、たかが知れてはいるけれど。
夕べは、パソコンに向かいながら、NHKアーカイブスを見ていた。
http://www.nhk.or.jp/archives/nhk-archives/past/2006/h070311.html#02
ドキュメント人間列島「64歳の新人医師」という内容だった。
27年間の教師生活にピリオドを打ち、50を過ぎて、京大医学部を受験し、医師国家資格を8回チャレンジし、
見事合格する。
その64歳の研修医生活を追ったものだった。
84歳の天寿を全うするまで現役で頑張ったと言う。
見るつもりではなかったけど、その情熱に引き込まれ、
魅入ってしまって、仕事どころではなくなった。
学生時代の同級生との対談のシーンがあった。
かたや、老齢の押しも押されもしない病院長。はじめから医学の道を行った彼の友人であり、
かたや64歳の新米医師である。
全くの同い年ながら、容姿も体力も覇気も全く異なって見えた。
老いという時間を享受していく者と、
夢を実現していく情熱の時間の違いがそこにあるように見えた。
その格差に夢を持つことの大きさを如実に垣間見た。
ひとつ教えられた。
得した気分。