うとましい

うとましい
国語辞典で調べてみた。

●いやな感じがして避けたい。いとわしい。

と、どの辞典にも大同小異だった。

人間関係には、頭ではわかっていながら、
感情は全く反対に働いてしまう関係って確かにあるにはある。

赤の他人とは、好かんと思えば会わなければよいのだが
怨憎会苦(おんぞうえく…会いたくないのに会わなければいけない苦しみ)
という苦しみも、2500年も昔からあるのだから、
今に始まったことではないわけだ。

ただ、親子の場合は、そうはいかない。

結婚して子供が産まれれば、誰でも自然と親になり
何人いても、子供は皆同じように、かわいいのだろうと独身時代は信じていた。
母性本能、父性本能というものは、自然と噴出するものだろうと・・・

しかし、実際に2人、3人、4人と増えてくると、
同じ愛情を子供それぞれに持つとは、ちょっと言い難い心があることに気が付いた。

親は無条件に子を愛せると言うのは、自分に限ってのことかもしれないが、
あるレベルまでは、懸命な努力が必要なのだとわかった。

親学と言う子供から教えてもらう実践学が必修なのである。

これは、生涯通じて学ばなければいけなようだが、
特に十月十日の間は、集中講義が必要なのだと思う。

さらに言うなら、男親は特に女親以上のガリ勉を要するみたいだ。

母親と子供は、お腹の中にいたときからのお付き合い。

けれど、男はオギャーと産まれてから、「こんにちわ」
とお付き合いが始まるわけで、この時間的、距離的、肉体的感性の違いは、
やはり、遅れをとっているように思う。

子育てを放棄する親の感情って何だろう…

一番大事な、大事な時期に、
子を通して己を育てられなかったつけなのだろうか。

愛情のギヤチェンジを間違えたのか、
チェンジせねまま、今に至ってしまった故であろうか。
ローのままでは、さぞかし苦しかろうて。

仕事のエネルギー

午前中朝、ご来店いただいたご夫婦に
ブレス念珠のオーダーをいただいた。

最近は、芸能人やスポーツ選手の影響もあってか、
以前なら、一部のヘビーユーザーぐらいしか使用しなかった
12mmや14mmの大玉(通常は6mmとか8mm玉が多い)の念珠を腕にまく方が増えた。

今回のオーダーもしかりで、
ご夫婦でペアーの念珠として注文をいただいた。

ご主人は、武道家と思うほどの屈強な体つきだったから
ごく自然な成り行きだったが、奥様も華奢な体に
同じサイズの玉を所望さらた。

「え!」と耳を疑うところだったが
「はい。これがいいわあ」と夫に懇願する。
見ていても微笑ましい。

20mmの玉でも作ったことはあるので
とことんまでは驚かない。、
やんわりと驚き、そして受け入れた。

小一時間かかって製作し終わった頃。
受け取りに現れたご夫妻の喜びようは
近頃には珍しいくらいに、はしゃぎよろこんで下さった。
女学生のように全身で表現してくださる奥様はもちろん
強面のご主人のにっこりには、感銘した。

あれこれと試行錯誤したわけでもないが、
いつもどおりに創る…

ただ、どういう家族構成だろう、どんな癖をもたれているんだろう、
生活のリズムはどんなだろう、等々思い描きながら製作する。

 玉の選び、ゴムのテンションや糸の本数などなど変化させる
たかが腕輪、されど腕輪なのである。

念をこめて作るって、自分なりには、そう考えている。

ゲストの喜んでくださる姿と同時に、
ドクドクとエネルギーが注入されるのを、実として感じた。

やっぱり、仕事ってお金じゃないなあ。

これでいいのかなあ

和歌山のお客様と電話で話をしていたら
なんだか話がずれる。
あれ?
何でだろう?

東京は、明日でお盆は終る。
和歌山のかたは、お盆に間に合えばよいという。

ん?
そうか…

日本の大部分は8月盆だったんだよね。

日本人として奥底にある感情としては
旧暦にそっての行事のほうが合点がいくことが多い。

お盆はその最たるものだろう。

明治新政府によって、太陽暦に改めた時点で
多くの日本の文化が改変された。

主要都市、特に東京は、政府のお膝元ゆえに
7月盆はいやおうなかったようだ。

仏壇屋にはありがたいことであるけれど
心情は、8月盆に軍配が上がる。

声を出したら言いのだろうが、勇気はない。
「もうそろそろ、文明開化の呪縛から逃れてみては?」って。

泣けちゃう

讃祷歌

仏教歌のひとつと言える。
一度でも聴かれたことのある方なら、仏教歌というといぶかしがるだろうほどに
その枠を越えて、日本人の美しかった心を歌い上げている。
全く新しい分野の歌と考える。

作者の心から零れ落ちる旋律を、自ら書きとめて
楽曲とした。

新堀智朝尼の生前中250曲近くを世に出され
風のように去って逝かれてしまった。
人の心の荒廃を嘆かれ、生涯を心の復興に捧げた。

駆け足で逝かれ、遺言のようにこの歌を遺された。
だから僕にとって、特別な存在なのだ。

最近知り合ったS師に楽譜をさしあげたところ
感動のままに
書き留め創作してくださった・・・散華。

一番好きな観音さまの歌も散華になっていた。

♪いとけなき子らに
 よみじを照らしつつ
 み手には乳びたれさせ給う 
 南無観世音・・・・・
 
 オンアロリキャ ソワカ

しばらく聴くことができなかった旋律が
目を通して、心に響きわたってきた。

モチベーション

昼食は、何年もの間、近くの立ち蕎麦屋で
ぱっと済ませてしまうのが日課だった。

昼食といっても、お店の混み具合は水物。
お客様の入り具合を見ながら合間に昼食となる為に
お昼にはまず食べられない。

若い順に昼食に入るから、自分の番は、2時3時は当たり前。
4時過ぎもありなんなのだ。

もう夕食?とよく聞かれるが
「いや昼食」と意地でも言うことにしている。

熱いそばはいらない。

ざるそばは、あんなチョロチョロの海苔だけのために、
100円も高いのは解せないから、
ここは至ってシンプルにもりそばが定石。

ちょんと汁を付けてズット吸い込む。
あまり噛まない。
一枚食べ終わるのに1分で済む。
そのかわり蕎麦湯を飲む時間が4分かかる。
しめて5分。

通ったときは2年間ほぼ毎日通った。

立ち食いの時は、そばをゆでている厨房越しのカウンターが
僕の定席。
そこで、来る日も来る日も、同じ作業を見ている。
そばうち作業を見ていると、面白いことがわかってきた。

見ていて、楽しそうにそばを打っている店員の
そばは、旨い。
リズムがある。
踊っているようにさえ見える。

何が楽しいのか、つい秘訣のひとつも聞き出したくて
声をかけてしまう。
そのうち仲良くなっていくから、僕の顔を見ると
念を入れて作ってくれるので、よけいにおいしく感じる。

反して、そうでない店員に当たると、半日気分が悪い。
形だけで打っている。

果たして、水っぽい。
腰がない。
要するにまずい。

これは本当に際立つ違いだと思った。

自分の仕事では、大丈夫だろうか?

いつも楽しむ仕事にしているだろうか?

水っぽい、腰のないそばを平気で出せる、高慢な姿勢に
なっていないだろうか。

値上げに思う

去年の6月から線香業界は
値上げにつぐ値上げラッシュ。
2割り3割増しはあたりまえ。

理由は、小売店としては、理解している。

伽羅は、言うまでもなく、沈香のワシントン条約入り
老山白檀の高騰ダブル、トリプルパンチを浴びせられっぱなしの
原料急高騰は、線香業界を震え上がらせている。

仏像を彫るにも5寸以上の坐像は白檀では無理なのだ。
原木がない。
特に光背を作る幅広の白檀がまったく手に入らない。

そんな状況だったから、線香類の価格が改定されないはずはないだろうと
考えていた。

「よくやっていられましたね」とむしろ同情する。

けれど、うちは、足並みはそろえなかった。

何故?。

納得できなかったからに他ならない。

当店のように、香り用品を三本柱の一つに据えているような業態のお店の場合、
足並みをそろえないと言うことは、本当は死活問題なのだ。

ほとんど利益のないものを、有料の梱包材を使って
さらに、ネット販売の場合、
送料をお客様と折半しているような料金体系なので、その負担分も含め
下手をすると、売れば売るほど赤字になってしまう。

それでも上代価格を抑えてきたのは、
納得できなかったからなのだ。

お客様に対し、メーカーとしてどれだけ周知しているだろうか?
これは、小売店としても同じかもしれないが。

原料が高騰している事実を(材料は確かに高騰を続け
この一年でも2倍以上上がっているのだが)広告する努力もしないで
土壌が熟成することもないのに、種は蒔けないもの。

けれど、それをやっちゃった。

それに追随して量販店も、一部の大型店もかまわず値上げしてしまった。
でもこれでいいのかなあ…

どうしても納得できずいるうちに、
主力にしていたメーカーも4月に値上げしてしまった。

そろそろ考えないといけないか…

お盆近し

7月に入っても、
あまり実感の伴わないお盆月。

僕がこの仕事を始めた頃は、6月になれば、

どことなく、ざわざわしてきて、
お盆の到来を肌で感じたものだった。

だから、何の迷いもなく、それまでの
「ここ何屋さん?」と聞かれる不思議なお店、ワンダーショップから

誰が見ても迷うこともない、
「供養のお店」に大変身するのだった。

もっとも、当時は、仏壇が店の半分を占めていたから
自分が思うほど、ワンダーショップでもなかったかもしれない。

ところが、今は、
お盆の当月となっても、

ご供養の話がささやかれるのは、
3、4日前から
具体的には、ほおづき市がたってからなのだ。

「ほおづきは人の魂を現す」なんて考えて
買い求める方が、どれほどいらっしゃるか、わからないけれど

ほおづき市=四万六千日(本来は、ご縁日に市がたったが正解で
「=」ではないのだが)を境に、

浅草は、お盆ムード満タンになる。

モチベーション

時間の流れが早い。

あれこれ予定しているのに
何にも手付かぬまま、日が過ぎること、過ぎること。
このジレンマから脱出しないと…

しかし、体力が続かない。
四万六千日や花火大会など、夜の10時11時まで元旦など

中田の引退で「モチベーション」の言葉がよく取りざたされている。
「サッカー界ではよく使われている言葉です」って
アナウンスされていたけれど、そうだったかなあ。

モチベーションはどんな分野でも大切なことでしょ。
「やる気を起こさせる内的な心の動き」
Hatena diaryの解説である。
「意欲の源(みなもと)になる「動機」のことです」
三省堂ワードワイズの解説である。

動機一つで、結果に影響する。天地の差が出る。

モチベーションには5段階あるとか 。

戦後の食べられさえすればという、自己生存の動機というレベルから
中田にみられるように自己実現への欲求の段階まであるそうな。
(我が家は、子らをたべさせなあかんから、第一段階だ)

商売をしていて、仏壇屋が物を並べていて
簡単に食べていける時代ではなくなった。
このことは、痛く感じる。

密教法具や経典、経典解説書、写経等々関心を持たれるお客様が
すこぶる多くなったこの現実。

考えるまでもなく、数字は語っている。
このことは、自分なりにも肌で感じさせてもらえる。

「モチベーション」を調べているうちに
面白いサイトに出会った。
http://www.kokken.go.jp/public/gairaigo/Teian1_4/iikaego.html
国立国語研究所「外来語」委員会の書替え語提案。

最近カタカナ語、多すぎるものね。
知らんけれど何となく使っている言葉って多い。

また後で読んでみよう。

また寄り道が増えてしまいそうだ。

オーダーで思い出すこと

オーダーのご依頼が多くて、お客様にご迷惑をおかけしている。
たいへん心苦しい。

創作は、もともと好きなので、いつもぞくぞくするくらい楽しい。

自分流は、納得しないと、即、やり直ししてしまうものだから
待たされる側はたまったものではないだろうなあ…といつも思う。

お客様側から見れば、ただ、時間ばかりの経過が目立つことだろう
と、心が痛い。

昔、趣味の自転車で、
あきれるほどフレームをオーダーしては、散財していた。

ある日、憧れだった日本一と言われる職人集団に
清水の舞台から飛び降りて、注文をおこした。

夢を描きながら、何度も何度も設計しなおした。

シートチューブが何mm、トップチューブが何mm、角度が何度 etc
と、自分の特殊な体形似合わせ、細かく細かく指定しお願いした。
一言もなく受け取った。

仕上がりの予定を聞いて唖然とした。

「1年は、お待ちくださいね」と鼻からくじかれた。
そう…まあ、納得のいくものが欲しいから、どうぞよろしくと頭を下げた。
1年、ワクワクしながら待った。

予定日が過ぎ、1ヶ月が過ぎ、3ヶ月が過ぎ、半年が過ぎ
少し記憶から薄れていた。
ワクワク感はどこかに行ってしまっていた。

ついに連絡する。
「どうなっていますか」
「あ、できていますよ」
あまりにもあっけなく完成の返事だったので、拍子抜けをした。

フレームの完成までにと、関東一円をたずね歩き、
集めたオールドパーツを
組み立ててみると、とんでもない事実と直面するのだった。

なに!
ペダルが前輪と接触する…

スポーツ車には、当たり前のトークリップと言う金具が付属する。
なんとそれが、前輪の泥除けとぶつかるのだ。

試しに試運転をしてみると、みごとにカーブに差しかかると
足をとられ、こけた。何度もこけるのである。

ワクワク感どころの話ではなかった。
1年半以上待ったあげく、半年分の給料が飛んでいく…のである。

日本一の職人なら、なんで一言、言ってくれぬのか…
ふっと心をよぎった。

お客様からクレームをいただくときは、
いつもこの昔話を思い出してしまう。

ちゃんと職人としての義務を果たしただろうか…
やれることは、なかったのだろうか。

しまった!

昨日、横浜から寄ってくださったS氏の情報から
二天門近くの産業会館に、大阪の自転車パーツ業者の
展示即売会があることを耳にしたばかりに、

いてもたってもおられず、店の混まない時間に、
ちょこっと、
ほんのちょっとだけ、顔を出してみた。

30年も前の愛車を、レストア中のため、自転車パーツと聞けば、
何でも欲しい状態ではあるのだが、

「市価よりぐんと安いよ」などぞと聞けば、
どんな諸兄でも、気が動くのではなかろうか。

ここは、わが仏壇業界もよく使う会場だけに
眼をつむっても行けるほど、慣れ親しんだ会場。

比較的広いフロアーを、1社で使うほどパーツが出ているの?
と掘り出し物なかなり期待をこめ、
しかし、「ちょこっと」だけ足を伸ばした。

日曜日は人が多いとしても、やけに多い人並みを縫って
会場まで走っていく。

できればホイールなど大きいものを考えていたが、
見ると、ラジアル組みや、8段や9段のフリー付きだの
見たこともないパーツの山、

30年近くレースの世界から遠ざかっている間に

全く違ったものに進化してしまった自転車たち。

まるで無機質な機械部品。
(元来無機質で正解なのだが、昔の部品は、人間味があったのだ)

未来的といえば未来的なのかも知れないが、
ちょっと幻滅を覚える。

ちょこっと見て帰るつもりが、むしろ、
恐れをなして…というより辟易して、
逃げ帰る格好で会場を後にした。

帰るついでに浅草寺に顔を出す。

しかし、
動けない。

境内に入ろうとしたとたん、固まった。
ほおずき市だ。

そう。
今日は、「4万6千日」だったのだ。
すっかり忘れていた。

月初めには、予定していたのに…
すっかり、記憶装置から抜け落ちていた。

どうりで人が多いわけだよ…
示現会と4万6千日

好きな縁日だったのに、すっかり記憶になかった。
さあどうなることやら・・・

どうする西海。


境内は、人、人、人であふれかえっていた。