九段の涼風

月の初めで、火曜日
写経と靖国参拝がかちあってしまった。
こういうときは、英霊を優先する。

ここ最近、
日曜日とぶつかることが多くて、
4ヶ月も九段に足を伸ばせなかった。

8月ということもあって、よほど込んでいるかと覚悟していたが
何のことはない、40人程度の昇殿参拝となってしまった。

15日になれば、一般の参拝者も、
各団体の団参も多くて、身動きも取れなくなるのだろう。

へこへこ地下鉄の九段駅から、
胸突き八丁の坂を上り(少しオーバーではあるが)、
じりじりとした夏の太陽も手伝って、けっこうこたえる。

なのに今日は、なんと爽やかな日和だろう。

秋風?と思わせる涼風に後押しされるように
靖国の参集殿までいっきに駆け上がることができた。

飯田橋からのほうが楽なのに
とアドバイスを受けた。
今度はそうしよう。

靖国神社に対しては、内外問わず、いろんな声があるけれど、
来るたびに、元気をもらって帰れることは、
偽らざるを得ない事実だ。

帰り道、本屋をのぞくと
月刊現代が靖国の特集を組んでいたのが目に入る。

いつもながら立ち読み。
僕が父親のように慕っている、
天台宗の柿沼洗心師の取材記事が目にとまる。

奇跡的に故郷帰りできた「※北関大捷碑」の記事であった。

日本、韓国、北朝鮮の三国を動かし民間レベルで事を収めたことは
奇跡に等しいと感じさせられる。
柿沼洗心師の尽力なしでは難しかったであろう。

※北関大捷碑…豊臣秀吉の朝鮮出兵時に秀吉軍を大敗させたことを記念して
建立された。1905年に時の日本軍が戦利品として持ち帰り靖国神社に安置した。

靖国で始まり、靖国でしめくくった一日だった。

万霊灯籠供養

8月を目の前にすると

敗戦記念日と、供養会が頭に浮かぶ。

3月8日の大空襲でここ浅草は、火の海と化した。
この隅田川が、人の屍で埋まったという。
思いたくもない光景だが、事実は事実なのだ。

いまでこそ、ウォーターフロントとして人々が行き交い
家族連れや若い人たちの笑い声が絶えない
観光スポットのひとつだ。

季節になれば屋形船を浮かばせ、桜花を愛でる川面がそうであったという。

たった60年前に、目もそむける阿鼻地獄が、
おんなじこの場所で、展開されたのだ。

浅草から文芸作品によく使われる吾妻橋の上流側の歩道を渡りきり、
ふと左に目を転じれば、そこに小さいお地蔵さんが立っている。
いつも花と線香が絶えない場所だ。

空襲時に川で亡くなった、子供たちの霊を供養するために
建てられた供養碑である。

見上げれば、観光スポットのひとつアサヒビール本社の
巨大オブジェが、異様に大きな魂にすら感じてしまうのである。

8月15日浅草寺の主催で
万霊灯籠供養会(ばんれいとうろうくようえ)が催行される。
心して、のぞみたいと思っている。

生きる言葉

持ち出しで、ずーと続けている道楽がある。

写経会。
ただ、年月だけは二桁になっってしまった。

「忙中閑(ぼうちゅうかん)が大事だよ」と師匠のような父親のような恩師の言葉を実践するつもりではじめ、今まで続けてきた。

もうやめようかと何度、思っただろう。

けれど、そんな思いをもちながら、会に臨むと
決まって誰かの口から

「ここがあるから助かったのよ、ありがと」
「来れてうれしかった…」
などと、耳にする。

必ずである。

お店の運営にも同じことが多い。
この仕事も決して順調なわけではない。

「世の中不景気でも仏具屋は、景気知らずだからいいね」
などと無責任に聞こえる一言を、ぽんと投げかけるお方が
いらっしゃる。
「じゃ、やってみたら」などとは口が裂けても言えない。

世の中そう簡単ではない。

それは、昭和の中くらいまでの話だろう。
食えなければ、はじめにカットする経費は
見えざるものへの経費なのだ。

「ご先祖さんは後ね。生きて働く人が大事だもの」
と言うではないか。

見えざる部分から、まずカットするのが常套手段である。
本当は、逆なのだけれどね…。

もうだめだ。そう思ったっことは数知れずある。
なのに、月末になると、不思議と救われてきた。

「あんたのお店があってよかったよ」
「会えてよかったよ」コールをいただくのである。

労働価値説なんてどこかの誰かが、昔いっていたけれど、
労働以上に大切な何かを感じる。

労働へ、いざなう「意欲」に価値があると思う。
意欲を持たせる「一言」に価値があると思う。
・・・・・・

その一言を、一人からでも、いただけるならば、
まだまだ、この仕事を続ける価値があるのだろう。

あんこマン

まだ、日中というのに浅草は、花火大会の影響で
やたらと浴衣の若者の姿が目立った。
日本人はやっぱり日本人だね。と思いたいのだが

着慣れていないことは差し引いても、
「できれば、ブランド物は、あまり似合わないよ」と言いたくなる
おじさん心を抑えるのに精一杯。

お店もそれなりに活気があって楽しい。

お客様と応対している最中に
Sさんの来訪があった。

「はい」と渡された
誕生日をすっかり忘れていた。
いつも子供の誕生日のおまけだった僕の記念日は
いつの間にか埋もれてしまっていた。

「仙太郎」初めて聞く和菓子屋だった。
あんこマンのこの僕も知らなかった。


小豆が活き活きしているんだよね。
え!わかるのかって?それくらいわかるさ…

一緒にいただいた小雑誌
「菓子屋のごたく」はさらに、嬉しかった。
自社製品の目録程度のものと、さらっと目をとおしていると
これが、なかなかどうして、職人気質を絵に描いたような内容だった。
どっちでもいい
表示に頼るな! 
清貧  ・・・etc

道義書のような内容に、これが目録?
と思える貴重な(僕には)本だった。
いつかほんの主に会えるだろうか。

縁をいただいたSさんに感謝。

今日はこれ。

今日の昼食はこれ。

けれど、口に入ったのは、夕方も6時
「じゃあ、夕食じゃん」と言うなかれ。

袋には、「朝食」と書いてある。
ならば、これは立派な朝食なのだ。
食生活が知れてしまうが、仕方ない。
今日は、これ一食だ。


トマトジュースで練っているというだけに、パン生地の色もトマト色。
中にウインナーとタマゴサラダがわずかに入っている
甘くないので、朝には確かにいいかもしれない。

ココアは、さっぱりしていてインスタント特有の
いやな後味がなくて、おいしい。

さて、明日は何にしよう。

食べちゃった

朝、メールチェックをし、
「ながら仕事」をしているうちに
朝ズバファンになってしまった。

6時ごろになると、腹も減ってくる
そこに、朝ズバパン。つまり企画商品ですな。

何でも新しいことなら、首を突っ込みたくなる
この性格。
何とかならないものか…

買っちゃった。

ホワイトチーズが挟まっていて、なかなかいけるぞ。
明日は何にしようかな。

時代を生きると言うこと

手元に一枚の写真がある。

格子に、すりガラスをはめた引き戸の、玄関前に
着物に割烹着姿に、ねんねこをつけ
おぶさり甘える子供は、一歳くらいの坊や。
お母さんは、とても若いのに、どこか凛とした清楚さを持つ。

お顔は現代的で、洋装に着替えれば、今の時代にも何にも不思議なく
溶け込める容姿だ。

昭和31年ごろの写真という。
同じ時代の人なら、思い出の片隅に、皆持っている光景だろう。

一瞬にしてタイムスリップをした。

少し前に亡くなられたのだという。
ご自分をこよなく愛してくれた母の似姿で、
観音様を彫りたいというご要望だった。

お写真を拝見した瞬間、
初対面にもかかわらず、懐かしくて、胸に詰まった。

話してみると、ご依頼人も私と同じ時代を生きた方だった。
と、すると、この中の坊やは、私の姿でもあるか・・・

どこにでもあった光景。
けれど、今は、どこにもない光景。

その時代の断片では、
今は、老女となった父も母も若く生きていたのだ。

いのちは連続している。
バトンを渡しながら次の時代を生きていく。

その時代に生きると言うことが、
渡されたバトンを持ちながら、懸命に生きることを、
なぜだか、今日は染み入るように理解させられた。

メルマガ出せないよー

メルマガを書かなくちゃ。
準備号を発行して一ヶ月過ぎてしまった。

サボっているわけではないのだが
時間が物理的にとれない。
言い訳だ。
いいわけでしかないのは、充分わかっている。
書きたいことは山とあるのに…

福島から来た友人にも、書かないのはもったいないわよと
釘を刺されてしまった。
まだ、習慣化してないのもあるのだが、
直しと製作に追いまくられている。

職人として、販売員として、WEBマスターとして、店長として、
そしてライターとして頑張らないとね。

もうちょっと待ってて下さいね。

おみやげ

これは古派で使うお線香、これは安いの・・・。
と、講釈し始めた。

いつも海外に行くと、頭の隅みに置いて、何かで驚かせようとして
現地のお土産を持ってきてくださる。Mさん。

始めまして、よく存じてます。

ネットで勉強しあった同期のオフ会を浅草で行った。
オフ会といっても、昼食を共にする程度の短いものだった
けれど、オンとオフでは感じる世界が
まるで違う。

初めて会うのに、初対面の気がしないのは
先に心の交流があるからだろうか。

いつも感じるネットの不思議さだ。