沈黙の中にも、心を伝える
仕事柄、人の念珠は、いやと言うほど拝見させてもらう。
製作に関わる者である以上、
当たり前と言えば、当たり前の話なのだが…
まだ購入されてから、何ヶ月もしていないのに、
酷使されて還ってくるものもある。
そうかと思うと、
10年、20年と過ぎて貫禄を増して、戻ってくるものもいる。
そうした、自分の手から出て行ったものには、ひとしおの感がある。
お嫁に出て行った娘が
「お久しゅうございます」と里帰りしてくれるようなものだ。
還ってくる姿を見て、さまざま思うが、
親としては、労をねぎらい、疲れを癒し、また、戻らせるのが
当然の処方だろう。
「うちの娘を大事にしてね」
心の中で祈りながらまた、手から離す。
最近、手にした念珠に感動した。
物は語らない。けれど、心は伝えてくれる。
これは、お直し中の写真だ。
星月菩提樹に赤珊瑚仕立てのミニ念珠。
80年以上たっている年期ものだが、作りがめちゃくちゃいい。
手のひらにすっぽり隠れてしまうほど、きゃしゃなつくりであるのに
しっかりとした重量感がある。
年代ものということすら感じさせない。
珊瑚ボサ一つ見ても、バランスが良く、センスのよさが光る。
穴周りの処理もすばらしくいい。
星月菩提樹も真っ黒になり、かろうじて年代を感じるが、
丸め、穴繰り、磨きがすこぶるいい。
このクラスの玉にしては、比較的、太目の中糸を通したが、
何のひっかかりもなく、するする通る。
「へーーー!」感嘆符を、3つも4つもつけたくなる驚きであった。
「いい仕事してますなあ」とは、どこかで聞いた言葉であるが
口をついて出てしまう。
職人にも信仰心からくる、こだわりの心があった時代のもの。
ものづくりとしては、
自分もそうでありたいと感じる逸品だった。
「沈黙の中にも、心を伝える」ものを創りたいものだ。
83さい
予想していたとおり、お盆タイムだった。
そういう状況であると決まって、
大事なお客様が多いのも常だ。
この仕事を、はじめた頃からのお客様も多い。
うちは、
一度お付き合いしていただけると、
ながーくお付きしていただけることが多い。
仏壇屋家業なのだから、彼岸の向うまで、
お付き合いさせていただくのは、
当たり前と言えば、当たり前なのかもしれないが…
ありがたいことだと思う。
開店一番のお客様、
日本では、カイロの草分けのKさん。
先月末で「83歳になっちゃったわ」って
舌をぺろりと出して笑う姿は、童女のようだ。
モラロジーがいいからと最近はじめられたようだが、
メガネもかけず、閑さえあれば、本を読んで勉強している。
カイロの勉強に、医学書を今でも読み漁る。
いいという話を聞けば
つまり、貪欲なまでに、前向き前向きなのだ。
そんな姿を見せる彼女に、いつも脱帽させられる。
こんな、エピソードもある。
60歳代バス乗り場で順番を待つ列を乱し先頭に横入りしようとする、
屈強な大男を、見事、投げ飛ばし、喝采を浴びた。
150cmそこその体のどこに、そんなエネルギーを貯めているんだろう…
首を傾げてしまうほどだ。
83歳にして歩くスピードは、ついていけないほど速い。
いつも見えなくなるまで、見送らせてもらうが、
最後に大きく手を左右に振って「バイバイ」という。
錆びないとは、こういうことなのだなあと、実感させられる。
本心では、若造の自分の歳で、
Kさんの云々は語れないと思っている。
自分がKさんの歳になってみたとき、きっと今を思い出すだろう…
と思っている。
果たして、自分は、いつまで前向きに、
そして、錆びず、エネルギッシュでいらるであろうか。と。
カヤを使用しました。
カヤ材にギャクギャクの梵字入りです。
ちょっち時間がかかりすぎました。
ちょと画像小さいですね。
変化を楽しむ
ようやく重い腰をあげ
お盆月らしい、ディスプレーに切り替えた。
とは言っても、以前なら、徹夜の作業になるところ
朝の6時からの作業で終えられたのだから、
とても身を入れて作り替えたとは、正直なところ言いがたい。
mixyの中でも書いたのだが、
6月から7月に一日またがっただけなのに、
雰囲気は全く異なる。
何が変わるかって?
興味の対象に変化が出る。
お客様の会話も変わる。
出る商品もがらっと変わる。
これから7月盆まで
7月盆から8月盆まで
8月盆から秋彼岸まで
その間にも、四万六千日、花火大会、サンバと催しのはさまる中
一日一日が、劇的な変化を遂げる。
だからおもしろい。
売れるとか、売れないとかどうでもよくなっちゃう。
一日を終えるごとに、思い出し、変化を楽しむ。
五大山
福島のSさまとご息女(笑われてしまいそうですが)が
訪ねてくださった。
中国への巡礼の旅のお誘いをいただいていながら
今回は、店の忙しさを理由に泣く泣く辞退した。
体は、日本においておきながら、心は一緒に出かけていた。
もう出発されたかなあ…北京についたかなあ…五大山に行かれたかなあ…
刻一刻と足跡をイメージしていた。
おかげで、つり逃がした魚はどうこう言うとおり
ますます、気持ちは募るようである。
それはさておいて、
そんな想いを察してくださり、わざわざお土産を持ってきて下さった。
山東省がどこにあるのか、五大山が位置的にどこなのか、
さっぱりわからなかった、ただ、過去に北京や西安に川崎大師を団長とした
法要の旅についていった経験が唯一中国を肌で知る経験だった。
もうずいぶん変わったろう…想像するが全く予想がつかない。
いつも懐かしさを覚えるSさまは資料をいっぱい抱えて来店くださった。
中国の写真も久々。お葬儀の列を写したもの。「お!へ!へ~」日本の神輿のような豪勢な列。(宮城の田舎でむかーし見た葬儀の列に似ているなあ)
写す被写体もとてもユニーク。
山東省の猫も猫は猫。でも乾燥しているためか眼病の猫が多かったとか。
西海さんは、こっちがいいわねと考えてくださって、
中国オリンピックの公式マスコットのグッズを買ってきてくださった。
まだ、日本では、販売されていないんだって。
日本初お目見え?
パンダかなあ…
一隅を照らす
茨木のHさんのご来店。
いつもながら、お客様から教えられることばかりだ。
Hさんとは、今まで念珠の話が多かったけれど
たまたま写経のコーナーで立ち話となった。
「写経っていいですよね」
「願文には何書いたらいいんでしょうね?」
と聞かれるので
「病気平癒の為や、○○供養の為というのもいいけれど、
天台宗では亡己利他を言われるのだから、より利他する願文がいいんじゃないですか」
天台宗のお寺で勉強していらっしゃるようで、
「そうですね」と納得のご様子。
ポロリ、ポロリと玄人はだしの言葉が漏れるHさんには、
釈迦に説法のようだった。
以前うつした写経紙を見ると何を考えながらのものか、
一目でわかるという。
「自分にとって写経は日記のようなものなんですよ」
天台宗では「一隅を照らす」者を国宝と考える。
ご本人は、まったく気付いていないようだ。
けれど、言葉の一言一言が、きらきら輝いていました。
最後に一言、置き土産。
「写経は、仏様へのお手紙ね」とHさん。
毎日欠かさずうつしているから自然に漏れる一言だろう。
「じゃあ、仏さまへのラブレターですね」
我ながらしゃれたことを、言ったもんだと
こういう人の前では、するりと言葉が引き出される。
めだか、それから。
店頭で日向ぼっこ。
栄養がよいのか、一週間でこんなに大きくなりました。
食べ過ぎの声も…
ちょっと見えないかなあ。
写真の真ん中に白く横切る線が「めだか」その人(魚)です。
蓮ちゃんも、お日様の光を浴びて、少し元気を取り戻しました。
まだまだ油断はなりません。
お店の前で日向ぼっこをしています。
応援してあげてくださいね^^
くれぐれも釣り上げないでね。
山梨まで出かけなくても
久しぶりに日本橋に出る。
浅草からは、目と鼻より近くに位置しながら
文化の違いをありあり感じる。
世界の銀座だけのことはある。
そんな一角に山梨県会館があり、
山梨の職人さんたちが集まると言うので、
梅雨の合間の真夏日、涼しいお店をあとにして、のこのこと出かけていった。
以前は、鉄道会館(大丸)の中の都道府県会館の一つが、
独立したのだろうと思った。
この日本橋の一等地に山梨県を紹介するためだけの会館を運営する。
すごいね。公共団体は。
パンフレットも数多く置いてあるので、立ち読み好きの中年は
なかなか帰るに帰れない状態になってしまった。
山梨の産業はすべて網羅されているようで、
ワインテイストもできるコーナーもあったり
なかなか、居心地のよい空間である。
富士登山の手引き書まであった。
また「登りたい虫」が出てくる時の為に、
資料をもらっておくことにした。
あんこ好きのbooが目を留めた竹炭どらやき
山梨とは、まったく関係なし!
炭ーー!
讃祷歌
今日はどうしたものか、ぜんぜーんお客様が少ない。
雨のせいにはしたくないが、少ない。
おかげで、念珠堂の倉庫の整理に汗を流すことができた。
おかげで、懐かしいものを発見した。
「歌マンダラ 讃祷歌 31回公演」
10年前の公演のパンフレット。
この公演の直前まで新宿のお寺まで練習に3年通っていた。
師の理想に共感したこともあったが
何より旋律の美しさに、魅了されつづけたためである。
さらにさかのぼること8年前(通算18年)にコラムで紹介されていた
讃祷歌と呼ぶ聞いたこともない楽曲に興味を示した。
讃美歌?祷り?さんとうか?山頭火?
?が4つも5つもついてしまう
試聴テープを依頼するも、期待はしていなかった。
まもなく送られてきた。
しかし、一度、耳にして魅了された。
感動した勢いで、感想をしたため、ポストに投函していた。
ある日、お店に電話が入った。
新堀智朝尼ご本人からであった。
はがき一枚の感想文に、作者がわざわざ連絡をくださった。
「こんなにストレートな感想を書いてくださってありがとう」
開口一番、か細くも芯のある声だった。
興味がわいた。
新宿参宮橋の小さな庵に、訪ねるのはまもなくのことだった。
お付き合いすればするほど
どれほどの教訓を与えてくださったかろうか。
早々に彼岸に渡られてしまったことを心から惜しむ。
パンフレットには、96年5月と記されている。
それまでの8年間、実際、歌ったのは3年間ほどだったろうか。
歌の世界には程遠いが、プロの声楽家と曲がりなりにも(大曲だが)
肩を並べて歌う機会を与えてくださり、歌の楽しさを伝授していただいた。
新堀智朝尼。
天才的仏教歌作曲家。
日常生活中、仏前でお勤め中、場所にかまわず、
自然と口からこぼれ出る曲を書き留めていかれた。
亡くなるまでの僅かな期間に240曲を越える曲を書き留めて逝かれた。
音譜一つ書いたこともない、一尼僧が著し続けた業績は大きい。
文字通り「天賦の才」と思っている。
宗派宗教を超えて、歌の世界で融和させようと試みてこられた。
「十年、世に出すのが遅かったわ…」
僕にポロリと、口に出されたことのある言葉だった。
今思えば、ご自分の死期を感じておられたのだろうか。
世の乱れを心から悲しみ、
女学生のような笑顔に似合わぬ、痛烈な(大人社会への)警告、
宗教界への警笛を鳴らし続けられた姿。
70才を越えてなお世界を飛び回られた。
そんな姿を、死の直前まで、間近に接することができたことは、
見えざる宝だった。
次の一歩を出す迷いを感じるとき、師の言葉を規範としている自分に
今も気付く。