人生摩訶不思議

もう十数年お付き合いしている貿易業者さんが訪ねてくれた。
もう70歳をとうに越えて年齢的に言えば
「おじいちゃん」と言われる御歳になるわけだ。

しかし、口が裂けてもいえない。
タブーである。

それよりも何よりも、実年齢よりはるかに若い。
全く歳を感じさせない。

着る物も、ぼくと比べても、はるかに若くセンスのよさが光る。
なにより、さりげなく着こなしている。

定年までは、某テレビ局でチーフプロデューサーをやっていたくらいだから、
芸能人にも知り合いが多い。
そして何人ものスターを世に送ってきた人だから、
彼にとってはごく自然な姿なのだろう。

最近、大病を患い、いろいろ思うことがあるようだ。

今日は、いつになく元気がない。
そのまま帰らせたくない気持ちになった。
「じゃあね」と立ち上がろうとしたときから、
昔話のモードのスイッチが入った。

人生のドラマは、聴いていて楽しい。
どのドキュメント番組よりドキュメントであるし、
一回しか生きれない人生を倍にしてくれているような感触をいつも感じる。

気がつくと2時間近く話し込んでいた。

子供の頃に観ていた番組を製作していた父親のような人と
こうしてコンビを組むのだから、人生摩訶不思議さを感じる。

イルミネーション 点灯!


待ちかねたぞ。

店頭…
じゃない転倒…
じゃない。
ついに点灯じゃ。

ピッカー

そして…

そんでもって…

ついでに…

まあ浅草らしいでしょ。

おまけにこれもだ…

今日もきれいでした。

浅草は、この季節

ようやく浅草にイルミネーションがついた。
雷門から駒形橋にかけての通り(並木通り)にである。

前にもお話ししたように
ここ浅草は、すでに正月モード。
浅草寺を中心の門前町だからしかたないにしても
いささか、気を遣いすぎじゃないのって思うことも…

ロケーションを最大限に活用するという意味では
地元愛に満ちているとも言えなくもないが。

東西霊性交流(東洋と西洋の宗教交流)が盛んになりつつあるのだから
ツリーの飾りが雷門にあっても
目からうろこで、たまには良いと思うのだけれど。

ともあれ、早く点灯しないかな。

すがすがしい気持ち

この浅草という土地柄、
海外のお客様のご来店が非常に多い。

この数年は、特に中国本土や東南アジアのお客様が、
明らかに目立つようになってきた。

以前は、欧米の方がほとんどだったのに。

こんなところにトップダウンの情報より、
草の根経済学のほうが、
現状の世界経済を肌身に感じるところだ。

海外のお坊さんもずいぶん来店される。
以外に思われる方も少なくないだろうが
西欧への日本の僧による布教は歴史が長い。
青い目の修行僧は、日本の本山で修行して地元に帰り寺を建てる。
そうした修行僧もいれば、アジアのお坊さんもいる。

開店早々、初めて接した外国のお坊さんは、
開放前のポーランドの雲水(修行僧)だった。

東欧圏から国を抜け出し、
禅の修行にこられていた若い僧だった。

下手に帰れば刑に服さなければならない。
命がけで修行していた顔は神々しくも感じた。

韓国、台湾、中国、ハワイ、米国、ドイツ、フランス…
本当にさまざまだ。

最近、
シンガポールの雲水さんとお付き合いをはじめた。

「何でも人にあげてしまうから、何にもないの」
といつも笑いながら、少ないお小遣いをもって
店に念珠を買いに来られる。

沙門(独身で生涯を通す僧)であり、
激しい修行をされてきたであろうことは微塵も見せない。

でも、わかるよ、それくらい・・・

指に文字通り火をつけ、仏を供養する。
しつこく聞き出す僕の要請に応じ、信仰の決意の一端を漏らしてくれた。
目がきらきらした青年だ。

国を越えてまで修行を極めようとする心が、
かの昔、日本の僧が命がけで荒海を越え、
唐の国に仏法を学びに行ったその姿とダブってしまう。

毎回顔を見るたびに
何とも言えない、すがすがしい気持ちにさせられるのだ。

正月の先取り気分

浅草は、すでに正月モード。

タイムマシンで時間を先取りしたような気分と
クリスマスを飛ばしてしまって損したような複雑な気持ちになる。

やっぱり僕は日本人なんだと思う。
仏教と神道と道教とキリスト教とが渾然一体とした文化が好きみたい。
浅草にクリスマスはいつ来るんだろう・・・

夜、浅草寺の境内を歩くと、
銀杏の美しさに感嘆符を打つ。

はらはらと見てる間にも降りつづく。
落ち葉が積もる光景に思わず一句もれる。

「お地蔵のあたまに黄色い雪が降りつもる」

今日はここ

いよいよ師走。
空もこのようす。
気持ちのいいこと。

ようやく足を伸ばせた靖国神社。

昇殿参拝が終わるや否や、靖国神社をあとにして
最終日を二日後に控えた上野の仏像展に急いだ。

急いだといいながら、
この天気のよさに初めて飯田橋まで歩くことに。
靖国通り沿いは雰囲気のある街路
ど根性根っこにも出逢う。
(まあどこにでもある光景だけどね。都会の木はかわいそう)

目的は、こちらだったのだが滋賀県向源寺の十一面観音思いがけず宝誌和尚の像に出会い魅入ってしまう。

夕暮れ

墨田公園もちょうどよく色づいて
セーヌのほとりのように雰囲気のある空間を作っている。

木漏れ日の中に人の温かみとあいまって
居心地がいい。
春は桜で混みあっている同じ場所とは思えない。

本当に美しい。

ほんの数分で、とばりがかかる。

花よりだんごは、駅に戻る。

こっちのほうが懐かしいと思うご同輩も多いだろう。

米穀通帳

朝一の日課は、メールチェックとmixiチェック、
それとお米とぎ(^^

弁当用のごはんが足りないと思うと、つい手を出してしまう。
子供のときからの習慣だから眠気覚ましには丁度良い。

うちのお米は、上さんの熊本の実家から送られてくる。

結婚してから、このかた肥後米で養われてきた。
子供たちも肥後の水と土で育ってきたようなものだ。
農家の娘とはいえ、親は凄いと思い知らされている。

初めてこの肥後米を口にしたときの驚きは、今でも忘れない。
多少柔らかめながら甘く、しっかりした味がある。
何より、次の日冷えてからが美味しいのだ。
おにぎりになんてすると、たまらなく美味しい。

スーパーに行くと、いつも肥後米を探すが、
見つけたためしがない。
流通量が少ないのだろうか。美味しいのに…。

少し調べてみると、江戸時代は米価を決める重要な銘柄だった。
明治から昭和初期までは、美味しい米として全国に知れ渡っていたようだ。

以前、店のものと歓談しているとき、米の話が話題になった。
もちろん、肥後米を話題にしたのは当然だった。

案の定だれも口にしたことはないようで、
肥後米の宣伝マンとして、話題をリードし盛り上がった。

しかし、ちょっと口を滑らした。

「今でこそブランド米どうの言うけれど、
昔は古米、古古米当たり前だったし『米穀通帳持』を持たされて、
買いに行かされたよね」と発言したとたん・・・

冷ややかな空気に包まれた。

「米穀通帳?なんですか?それ」

って、皆口をそろえて、のたもうたのだ。

結局、米穀手帳を知るものは、上さんを含め、
僕の周りには、 一人だにいなかった。

まあ、農家の娘は別として、東京育ちにまで、
記憶がないといわれるとは、いささかショックだった。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E7%A9%80%E6%89%8B%E5%B8%B3

中学生のころまでは、たしかに米穀通帳を持って
米屋に古古古米を買いに行った。

「配給」の名残、
つまり「戦後」を、ぼくは体験してきたということなのだろうか。