夏の定番

夏になるとこの画像がルーチンだ。 
昭和のおおらかな時代の好きものの遊びの一コマだ。
富士山頂上から百メートルほど走った所あたりかな。
このあとものの見事に空転をかまして背中から着地しているが友は撮り逃した。

最近、富士山のブル道がテレビに映っていた。
各山荘に荷をあげるために毎日往復している話や傷病者をふもとに下ろすために頑張っている話し。並行して最近の富士登山の状況も映し出され無謀な外人で関係者の頭を痛ませている現状も少し飲みこめた。

弾丸登山はダメと言うのが最近の常識のようだ。が昭和の僕らの時代は、仕事が終わったその足で5合目に向かい日にちが変わった頃に登山開始とにかく多かったのを覚えている。若者にはそれがトレンディーだったのだろう、人ごみの中を歩くようだった。自転車を頃がしているのは奇異の目にさらされるのを覚悟の上だったがどこ吹く風だった。

弾丸登山も疲れたら斜面で大の字に寝転で休むなんてまゆをしかめられる行為になったんだと。
まして自転車を担ぎあげ、頂上から自転車ごと転がり遊ぶなんて。。。さ。

浅草のそら

同じ位置ではないけれど、おおむねここか。
誰が請来こんな無味乾燥な風景になろうと思っていただろうか。

昔は地元の子供達が道路(都電の線路=電車道)を挟んで向こうとこっちでキャッチボールをして遊んだという。なんと自由な時代だ。

拝借した画像だが都電の盲腸線の停留所

浅草のそら

今日のTONは歯医者から一日が始まった。
いい先生でこちらの仕事の都合を考慮してくださって一時間も前に開院してくれる。
赤ひげと言いたいが治療費をまけてくれるわけではないことは書いとかなきゃならないだろう。

歯医者の帰り道、ブラブラ歩いていると交番横の樹木(木肌を見ると楠と思うのだが何だろう)の影が夏日の直射日光を遮ってくれていつもながら気持ちがよい。
浅草に来たばかりの頃とは比較にならないほど大きく立派になった。

都道の反対側にも同じ木が以前はあったが、数年前惜しくも地下鉄工事の為に切り倒されてしまった。
都会の樹木の運命は紙より軽いんだなと思わされる(紙の材料ではあるとは言え)。西武グループの創業者の堤康次郎は気を大切にして施設を作る時も大木には手をつけなかったと聞く。
TONは結構気に入っていたのであるが、その伐採跡の風景を見るにつけ、やたら殺伐とした魅力を失った単なる交差点の風景が残った。
だけら、せめてこちら側の大木は元気でいてほしいと思うのだ。

枝が生き生きしている。健康なのだと信じる。証拠に根っこが元気で敷石を持ちあげて存在をアピールしている。
早いとこ足元を改良してあげようよ。根をしっかり張って行け。強風に倒される前に。

苦しいよう・・・・って言ってるよ。

なんだろね。

浅草のそら

仕事がらと言うこともそうだし、町の冠婚葬祭の婚を除いた冠葬祭はお手伝いが回ってきて特に葬祭は切っても切れない間柄である。
昔は極力逃げて回っていたし、涙にくれる場所は仮病を使ってでもスル―が原則だった。が、年齢もそれなりになってくると責任が付いて回り通夜も告別式も参加の憂き目にあう。今は決して避けるほどのことはないのだがそれでも・・・・井上揚水の歌詞のように避けたいのが本音だ。
だから今は極力チャンネルを微妙にずらし感情をこっちに置いて客観的に観察することにに徹している。
今日は老齢のご夫婦で先にご婦人が先に旅たたれた。
式の最中はずーっとご主人を追っていた。ポーカーフェースで貫きとおされていらっしゃって最後まで公衆の面前では終了するのかなと思って見ていた。
式の最後出棺の場になり喪主の言葉を聞いていた。
話の前後は忘れたが「彼女は頑張ってきました」相手を慰労する言葉が出た途端相形が崩れた。

感情の出どころは相手をかばうときその隙をパーンと突いて出る。もんだなぁ。。。

そう。たぶん故人が頑張る姿が走馬灯のように巡り巡ったのだろう。
死という購いきれない出来事に涙を誘うのではなく、他を思いやった出来事に感情のコックが開いたのだろう。。。