浅草のそら
浅草のそら
浅草のそら
今年のお盆はどうか?会う人会う人に尋ねることにしている。実はTON自身の疑問をよそに向けて確認しているのだが、この暑さのせいばかりではなく、宗教心、伝統的な日本人の地盤沈下が起きているように感じてならないことに自分ながらの回答が揃わないでほしいと思いつつも考えている方向は正しそうだと言うことを認めざるを得ないことがこわいのだ。
お盆なのだが。。。
お盆のいろはですが案外知られていないのが実情です。
以下はある方のブログからお盆の起源についての記事を拝借した。
お釈迦(しゃか)様には十大弟子がいる一番弟子は舎利(しゃり)弗(ほつ)で、智慧の第一者である
二番弟子は目蓮(もくれん)で、神通力(じんつうりき)を悟って如来(にょらい)になった。神通力とは 過去・未来
そして相手の心さえ、見通すことができる能力である。
神通力を得た目蓮は、最初に母親の事を考。えた、もう他界しているが無事に天界に着いているかどうかずっと気懸りであった。そこで目連は、得意の神通力で他界した母親を見ることにした。仏教では人の住む世界を六つに分けている、いわゆる六道である。上から、天界・人間界・修羅(しゅら)界・畜生(ちくしょう)界・餓鬼(がき)界・地獄(じごく)界生前、自分にはとても優しくて立派だった母親だからきっと天界にいるだろう。そう思って探してみるが、一向に見当たらない。ひょっとしたら 人間界かも知れないそう思い必死で探してみるが 人間界にもいない。修羅界にも畜生界にもいなかった。落胆した目蓮は なかば諦めながらも、餓鬼界を探してみた。そこでようやく自分の母親を見つけることができた。餓鬼界は地獄界の一つ手前である。餓鬼界にいる母親は、いまや見る影もなく痩せ細り 骨と皮ばかりである。自分は釈迦如来の弟子だから母親を救うことくらい容易いはずだ。そう思い神通力でご飯を渡そうとするが母親が手に取る前にパッと火がついて燃えてしまう水を渡そうとしてもすぐに煮えくり返えってしまい 到底飲むことが出来ない。しかも 母親は逆さ吊りにされている目連は母親を助けようと試みたが、結局 手も足も出なかった。困り果てた目連は 釈迦如来のところに相談に行った。「どうか私の母親を助けてください」と必死ですがる目連に釈迦如来は「お母さんは助からない」と静かに告げた。「なぜ あんなに優しかった母が餓鬼界に落とされてしまったのでしょうか!何かの間違いに違いない」一所懸命に 目蓮は聞き返す「母として子供には尽くしただろうが他人に布施をしなかっただから助からない、諦めよ」!それでも目蓮は納得できない。何としても母を救いたいと、執拗(しつよう)に釈迦如来に尋ねた。「方法は一つだけある。七月十五日は坊さんが百日の修行を終える日、伝道(でんどう)に出るから、お坊さん方に供養(くよう)してみなさい」その言葉に従って、目蓮は精根(せいこん)をこめて供養したすると、もうムリだと思っていた母親が救われたのである。あまりの嬉しさに目蓮は、母親と抱き合って踊り狂った。それがお盆の供養、盂蘭盆会(うらぼんえ)と盆踊(ぼんおど)りの由来になっている。人間は、ついつい貪(むさぼ)る欲がでるものである。それでは幸せになれないので仏教では 布施をしなさいと教えている。
という。
お盆はみんなで楽しい思いだけをするためのものでも、旅行に行くだけのものでも、まして盆休み中を寝て過ごす日でもない。
父母、先祖に孝庸を尽くす日なのであること夢々悪るるべからずなのだ。
浅草のそら
浅草のそら
浅草のそら
浅草のそら 四万六千日なのだ。
本堂のすぐ東側にある浅草神社をお参りする。
夏詣の時期。数日前の七夕の飾りと思うけど、この暑さに耐えかねて青々していたはずの笹の葉はどう欲目に見ても赤く枯れてしまっていた。もうはずさないと。。。
四萬六千日というか今日はほおずき市。明日が本番。
神社は夏詣。寺はお盆。
朝が早いせいもあるかもしれないが屋台やほおずきの出店が少なく感じるのはTONの錯覚だろうか。
小学生がこの場を通って登校するのは浅草、っていう光景かな。
明日は観音様のご利益絶頂日の四万六千日当日となる。
今日より人手が多くなったら、大したものだと思う。
今日は日曜日。人手が多いのは当たり前だが、明日は観音信仰のメモリアルディだからだ。
ブラックマンディ…じゃない、ハッピーマンディの施策で本来の記念日が人の(経済の)都合で勝手に動かされて連休を生む方策とされたわけだが、記念日とはそういうものではないだろう!がTONの思い。これからの誕生日は〇月の第二週の金曜日ね。結婚記念日は〇月の第一火曜日にしたよ。誰が納得いくだろうか。そのうちめんどくさくなって雲散霧消するのがおちだ。
∴四万六千日は7月10日なのだ。これとて本当は旧暦で数えるのが本当だったりして。