阪神淡路大震災
もうすぐ・・・
17日。
95年1月17日
あれからもう16年を数えるんだ・・・。
こんな寒い季節だったんだなといまさらながら思う。
こあんな時期、突然の天災に家族を失い、住む家を失い、何もかもを失って絶望の淵に立たされた被災者、その家族知人を思うと、身をよじるほどの心の痛みが襲いかかる。
身につまされる。
当日僕はちょうど関西方面に出張中だったので、家族はえらく心配して帰郷を待っていた。
当時、神戸の友人たちと研究会を持っていたので僕は僕なりに彼らを心配していた。
半年後に久しぶりに神戸の町に出かけた。
横浜育ちの僕には、子供の頃の記憶に市内の各所に色濃く残っていた戦争の傷跡や瓦礫のまま焼け焦げたビル郡は独特のにおいを漂わせていた。そんな匂いを知っているだけに、神戸の町はどこか似通った匂いと風景をダブらせるに充分だった。
驚愕したあの日から、
もう二十年に手が届こうとしているのか・・・。
浅草のそら
浅草のそら
ワイヤーとて
安心してはいけないと言うこと。
味わいのある・・・
ずいぶん昔のハリの親玉だ。
ハリ・・・つまり玻璃・・・もともとは天然ガラスを指した言葉。
そのハリの親玉、ここにきて全く手に入らなくなった。
こう見えても、一つ一つ吹いて作る手工品。
何処にもある後継者の問題で、ついに終了してしまった。
ハリ仕立てなんて安い念珠の代名詞のように使われて久しいが、これが案外見逃されてきたことなのだ。
いまさらながらだが、じっくり観察していると、一つ一つ実に興味深いことがわかる。
とくにこんな古いハリになると穴の形状も躯体本体のガラスが流れているさま(流紋)も面白い。
「水晶仕立てにしようか?」と相談された時、今はランクを考えなければ,水晶なんていくらでも作れる時代。
この趣きさを惜しむ気持ちが先立って、そのままのパーツを用いてお使いになることをお勧めした。
案外見落としている美はこうしてあちこちにあるのかもしれないと改めて思わされた。
浅草のそら
浅草のそら

