カット比較

オニキスと水晶のカット比較。
さあどうしよう

一難さってまた一難・・・ではなくて、一案いってまた一案が正解。
今度は珊瑚の羽織留めって言うのでしょうか、それに、かんざしに使っていた大玉の赤。大小さまざまな玉で作ります。
どういう組み合わせで創ろうかな。
この瞬間がいいのです・・・
できました

ネックレスから片手念珠2本。
穴の小さいことが気になるけれど、強化糸でなんとかもたせよう。
ちょっと困った

仕事柄、爪を伸ばしておかないと糸をしごけない。
しかたなく不精なTONも億劫ながらも伸ばさざるを得ないでいる。
ギターに熱中していた若き頃とどこか似ているけど決定的な違いはこれが僕の生活の糧なのだということ。
これって生活シーンでは以外に邪魔になることがある。
最近の若い女の子は凄いと思う。
わざわざ付け爪なぁんて付けてまで、爪を巨大化しその指で携帯メールを速押しできるのだから・・・
最近手にしたiPhonの液晶画面を触るのに指先では爪が邪魔して僕にはタッチできない。
指の指紋部分でタッチすると的確に目的地に至らなくて勝手なページに飛んでしまう。
う~~ん。ここは小指を駆使するしかないのだろうか・・・
人前でそんな操作していたら
「あのオヤジ小指で御してる・・・」ちょっと異様な光景に映りはしないか心配である。
一考しなくてはならない。
反対に利点と言えば・・・
・・・・・・・・
しいて言うなら・・・・・・・
背中をかくときになかなか気持ちがいいと言うことくらいなものだろうか・・・
浅草のそら
十一面観音経:
浅草のそら:
癖
大き目の馨子(リン)をゴンゴンと叩くと、決まって
「むじょうじんじんみみょうほう・・・」
の言葉がついついついて出てくるのです。
仏教者ならば、当たり前のこととして仏前でお経をあげる前の常套句の如くのお経「開経偈」であるわけです。
これから読誦させてもらうお経は百千万劫にも遭うことが難しいものなのだと感謝と感激の導入句。
ただTONの開経偈は開経偈でも人とはチョット違うのである。
自分を特別視しようなどと思うのでは毛頭ないのですが・・・。
じつはそのお経には旋律が乗っている・・・いやいや正しくは旋律にお経が乗って口をついて出てくるのだあります。
だから法要に参加するときには当初ちょっとこまった現象になってしまうのです。
厳粛な顔をしている参列者のなかで、ひとり鼻歌を歌っているのですから・・・。
でもそれはTON的にはお経を読んでいるのであるのです。
でも、周りにはわっからないだろうな・・・
馴れてきてしまえば、だれも気がつきゃしないだろうくらいに一人で歌っているようになったのでありました。
お経を読めば歌になる・・・。そうなったにはそうなった原因があるのでありました。というのも長くお世話になった真言宗智山派智韻寺の住職である新堀智朝尼の創作された讃祷歌の曲の中に原因があったのです。
師は宮沢賢治のことば「これからの宗教は芸術。これからの芸術は宗教」を文字通り実践された方でしたが、諸尊諸菩薩を歌にされた方でした。三帰、開経偈、般若心経、普回向とまさに宝前での勤行どおりの曲もあるのでありました。
歌い込みもし、歌い慣れもし、細胞に擦りこまれている感じなのでありました。
かならず「三帰」の旋律が頭に浮かぶ。
ついで口ずさむ。
開経偈、心経へと細胞がかってに喜んで旋律を奏でているのだから・・・
しかたない。
智朝尼の13回忌がとっくに過ぎているのに、今だに心は勝手にお経を歌うのであります。
浅草のそら:

