商いのかたち

ネットの仕事をしていると、大企業ではないだけに(と誇らしげにいうことでもないのだが)ホームページの更新から商品撮影まで全て一人で行っている。

最近は外注する御仁が増えたが、どうもその気にならない。
ついていけない、というのか自分(の一部)を表現するのに他人の手を借りたくないという気が強い。

そうだから俄然、自分のカラーになってしまう。

でもそれでいいと今は思っている。
無理に美しいページにしたいとも思っていない。
ガバチョガバチョと儲けようとも思っていない。
手を出すとしたら、より多くの人との縁を持ちたいなと思ったときなのかもしれない。

自分の手の長さで収まる人とのお付き合いができればそれでよいと思う。今は。

必要以上に作りこんで、モールに出して、宣伝していけば、比例して売り上げもトントンと伸びた。それはしっかり体験した。
でも比例して楽しくなくなった。

この感情って、以前も味わった。
とにかく根が真面目だし、猪突猛進のところがあるから、一生懸命やる。
やればやっただけの見返りもそれなりにあった。
けれど人がお財布に見えてきたとき、人に命を感じなくなった時、全てやめた。
己の動機に不順を感じたらいつでも撤退できる。

だからお客様も自分も楽しいと思えるようでありたい。
そう思う自分の接し方、商いって何だろうといつも模索している。

答えが出た時には時代遅れになってしまうかも知れない。
けれど模索してみようと思っている。

見えざるものはないの?

暖かくなってくると、だんだんれいの季節に近づく。

れいのはなし。
ようするに霊の話し。

小学校のときなら、ザ・ガードマンという番組、夏休みになれば一ヶ月以上に渡り怪談特集となる。
家族が家にいればよいのだが、一人で留守を任されるときは、布団を敷いてもぐりこみ、まあるくなってじっと見ていた。

姉のマーガレットを盗み読みすれば、怪奇特集記事がなんて言っても面白くて通読した。

自分でも暇さえあれば作り話を考え創作していてレパートリーを広くした。子供どうしで百話なんてなると、ここぞと怖がらせて喜んだ。

心霊スポットの肝試し。高校時代の赤っ恥事件。数え上げたらきりがない。

そんなに好きなのかと言えば、実は嫌いなのだ。大嫌い。
自転車で山道を走ると時々遭遇する素掘りのトンネルなんて怖くていけない。

とにかくああいった類のものは近寄らないのにこしたことはないと思っている。

大人になればなるほど見えざるものに近づくのが苦手になった気がする。

裏返して考えてみれば、信じきっているからこそ、真剣に怖いと思うのだろうな。
と、結論づけている。
あんなのへーき、などと怖がらない人は、真剣さが足りないのだ。
とも結論付けることにしている。

見えないから、ないとでも思っているのだろうくらいに思っている。

科学的に解明すると言ってテレビで時たま実験を行う番組があるけれど、世の霊能者と言われる人たちは講義しているのだろうか・・・などとも思っている。

まあとにかくセーターの要らない季節になってくるとそんなことが頭によぎり、眼にしないように気をつけている。のだ。