つらつら思う
人は愛されて人になる。
無償の愛を受けて初めて人間らしさを身につける。
愛された人は、人を愛することで愛が固定する。
借り物でなくなる。
ぼくはそう思うんだな。
しつけと言う字は身を美しくすると書くけれど、
本当に「躾」られている人はどれほどいるんだろう。
人と言う字は支えあう二人の人を現すと言うけれど、
ほんとうにそのとおりだと思う。
さらに言えば人が二人と書いてひとと読ませるほうがもっと好きなのだけれど。
今は口と言う感情表現の器官を使わないでも生活できる環境になってしまった。
おはよう。こんにちは。こんばんは。下さい。お願いします。ありがとう。
ごめんんさい。
その一言がないまま生きれる環境ってどこかおかしくないかなあ。
言葉ひとつで愛することだってある。
どこかにたまりたまった愛が、分けられない愛が、いつかどこかでショートしてしまうんではないだろうか・・・
魔鏡

見えるだろうか。
光の中に阿弥陀仏が線画で映し出されているのを。
これが魔境です。
別段どこって不思議なことはないのですが・・・
こうでしょ。

裏側はこうでしょ。

実は・・・
鏡の裏側にこういう加工が施されているのです。
この鏡面の何ミクロンという凹凸が反射する光に形を映し出すのです。
隠れキリシタンの時代、ここにイエスキリストやマリア様を映し出すようにしていたんですね。
信仰の力って凄いや。
初:写経
浅草のそら
浅草のそら
曹洞宗用片手
正式ではないのですが、限りなく宗派の形を踏襲しています。
浅草のそら
時は流れるということ
毎年のことだが、正月が七草を迎える頃ようやく我に帰る。
暮れから今頃までは全く自分の足元を見る余裕などない。
言い訳になるが、そんな調子だから年賀状を書く風習が僕の習慣から消えて久しい。
それこそ恩を受けた人は数限りなくいるから何万通出しても足りないくらいだけれど、t天を仰いで手を合わせ失礼をわびている。
ただ、どうしても外せないお寺とのご縁を子供の遊びのような年賀だけれど、これだけはずっと続けるようにしてきた。
それが七草に間に合うようにと、というか我に返ってからようやく手をつけられるということなのだ。
これだけは人の手を借りないで一点一点包装し、プチプチでガードし、袋詰めし、送り状を手書きする。送り状などドットプリンターで出せばよいではないかと思う人もいるが、それでは年賀など出さないのと同じことなのだ。
下手な字でも肉筆に意味があると思う。
無沙汰をわびるお手紙を添え梱包完了。
それを発送すると僕の中の正月の儀式は半ば終了できる。
この先生の名前書きづらいんだ・・・といつものことなのに流して書いた自分の文字に文句を言いながら、しかたないから、WEBで検索しよう。と○○寺の何某とグーグルに打ち込むと何万件とその名前は出現する。
「え~となになに・・・」
一番上の記事に目を落した。
「08年11月のご遷化された・・・」
「え!なにこれ」
僕は何も知らないで09年1月もお年賀を送っていたのだ。
慌てて確認した。
出てくるわ出てくるわ。
僕を可愛がってくれるご住職たちだもの、それ相応の年齢に至っているのは理解しているつもりなのだが、中には本当に若い方もいらっしゃる。
何だかため息が出てくる。
顔がふっと現れる。激励してくれた声が耳によみがえる。
約束が違うじゃないですかそれでも宗教家ですか、と大喧嘩をした想い出が思い出されたり。
あんたには負けたよと電話をいただいたことや何だろう・・・当時はくそ坊主二度と顔も見たくないと思ったその顔が無性に懐かしくなるんだから・・・
正月を過ぎると不思議といろいろ見えてくる。
やっぱり一期一会でその瞬間に全てのエネルギーを燃焼する出会いをしないといけないなあ。
何度も何度も同じことを繰り返しているのだけれど、また再び気づかされたのだ。
浅草のそら

