浅草のそら
後押し
店前の商店会の通りを敷石化して参道らしく整えることになった。
もう一年以上関わってきた。
その責任者だから技術的なことから民意のとりまとめ、集金までやらざるをえない。
今日そのための最後の地元説明会を行った。
ここに至るまでなかなか波乱万丈だった。
いろんな人がいるから、総論賛成でもいざお金を出す段になると手の平を返すものもいる。
逃げてしまうものもいる。いらぬ噂を流すのもいる。
でも、頑張ってねと予想外の声や喜捨をしてくれることもある。
ありがたくって心がぽっと温かくなる。思わずホロッとすることもある。
昔、土木の技術屋時代は、数千万の工事から数十億の工事まで関わってきた。といっても何となくやっていた。自分で稼いだ金でもない。
予算が回ってくれば、仕事としてこなすだけ。
だからあまり自分としては印象がない。
それでいて技術屋は金に左右されないんだ位の意識は持っていた。
今の仕事は昔と比べればはるかず~と小さな事業だ。
でもこの小さな力と心を集結していくことを通して、細かなお金が集まっていく。小さなお金でもそれが総意というのか民意と言うのか、とにかくみんなの期待の結晶なのだということを感じさせられる。
そんなことを思うと、ぐんと後押しされている自分に気が付く。
頑張らなくっちゃ・・・・と。
夫婦です
一位に珊瑚と青メノーで仕立てました。
同行二人
同行二人
元々は四国遍路に向かう巡礼者に対して、お遍路は一人で巡るのではない。常にお大師さまと二人なのだとする宗教的観点の理解からくるものなのだ。
だからこそ、四国に入る前にわざわざ遠回り(でもないけれど今は・・・)して高野山奥之院に今なお禅定されているお大師さまをお迎えに行き、八十八ヶ所巡り終えれば、もう一度、奥の院に戻りお戻りいただくのだ。
午前中に店に来られた強持ての紳士は、「また来るね」と手打ちの大徳寺を置き去りにして店を後にした。
夕方再び戻ってこられた時、僕は手作業の最中でお相手できず、代わりに相棒がお相手させていただいていた。
10万を越える手打ちりんと朱の厨子を求めてくださった。
朱の厨子に何かを入れているのがチラッと視界に入った。
「窮屈だなもう少し大きいの」と注文をつけた時、初めてその人が午前中の紳士であるのに気が付いた。
倉庫から一回り大きい厨子をお見せした。
「ん!これならいい」
よく見ると、位牌だった。
「今度一緒に旅するから」
輪島塗をさせたという位牌は、きれいなつやを見せていた。
梱包をするために暫し時間が空いたのを見計らって手を休め、朝のお礼を言った。
ついでに、旅することの意味を聞いてみた。
紳士は長く海外生活をされていた。妻に癌の兆候が見られて闘病のために一時帰国した。帰らぬ人となった。
自らも同じ病を発見し闘った。
幸い発見が早く川を渡ることはなかった。しかし妻は渡ってしまったんだという。
先ほどの美しい位牌を愛おしくさする様が脳裏に浮かんだ。
「だから一緒に旅をする」
そうですね。
いつかあちらで逢えますね。
「いや。まだだ」
遣り残しの仕事が山とあるのだろう。
「また海外に戻る」という。
奥様とともに・・・
長く居た海外には最愛の人の余韻が残っているのだろう・・・し。
夫婦は同行二人。
浅草のそら
一隅を照らすと言うこと
世の中にはいろいろな方がいる。
4歳で1時間以上、心拍停止。つまり死亡した。
その間、福禄寿が自らに語り続け、ついには蘇生のきっかけを与えてくれた。
「人のために生きなさい」と自分の生の目的に芽生えた。
何十年か病院勤務を経て、ようやく本来の目的にむかって歩み始めた。
いろいろな人が聞きつけて会いに来る。アドバイスすることなすことが、相手の命運をことごとく好転させてきた。
「大変なお役をいただきましたね」
僕が言うとにこっとうなずいてくださった。
それでもまだまだ本来の目的、夢は果たされていないと言われる。
こうした直接的に天命を下された方はもちろんだけれど、天命を気づかないだけで・・・はたまた気づきながらも、天命から逃げてばかりの方もいるだろう(僕もその口かな)し、
何にせよ、伝教大師の「一隅を照らす」のお言葉は、いかなる人にも種をその身にそなえているのだ。と思っている。
そういう意味からも、年間に3万人を越えて自らの生を終らせる人たちに言いたい。
あなたの中の小さな種を信じてね。
この地上に生れ落ちた命は、無意味に生まれたのではないんだ。
僕の高校時代の親友は、その種を咲かす前に自ら枯らしてしまった。
周りの人間に一言もなく。
残された者がどれほどの生き地獄を味わうとも考えないで。
一人ひとりの立ち位置をおのれの灯りで灯すことで、自分がまた見えてくる。
自ら灯すことをしないまま、いくら見ようとしても見えないものさ。
だから信じてほしい。
人を照らす行為の末におのれの位置も見えてくるのだと言うことを。
解らなければ眼を瞑っても一歩足を踏み出してごらん。
自分の中の灯りの種のあることを信じて。