最近の朝のそらはこんな感じばかり。
たまにはスカッと秋の空・・・
っと、夏の空にならないかなあ。
最近の朝のそらはこんな感じばかり。
たまにはスカッと秋の空・・・
っと、夏の空にならないかなあ。
朝は小雨。
昼はカンカンの快晴。
にわかに曇ってきたよん。
そのたびに商品を出したり入れたり大忙し。
えーい。
なんとかならんかい。
子供用に製作した深海珊瑚の片手。
小学生だからといっても安価なもので納得させていいはずはないと思う。
そこで、大人用の念珠をそのまんまスケールダウンし、
目の肥えた、本物のわかるお子様用に創った物だ。
本物ゆえに充分みごたえはあると思う。
「子供にもったいないわ」などと言わないで欲しい。
小さい時に本物に触れておくのはとてもよいことなんですよ。
ましてや自分のものとして大切にする心も同時に養ってもらう。
じゃあ子供が大きくなったときどうするの?
の答えは、玉を足して径を大きくしたらよいのです。
また、他の玉とのアソートにしてもよいでしょう。
要は腕一つ、アイデア次第と言うところだろうと思う。
改めて見ていて、大人がそのまま使用してもよいのではないかとも思う。
腕輪念珠はさすがにお葬式など法要の際に使用することはお勧めできないが、このサイズなら何ら違和感はないし、邪魔にもならない。
お守りサイズ、大人の手のひらにすっぽり隠れるサイズだ。
多目的に使えそうでもある。
一つの分野になるかもしれないと一人思った。
早いもので、東京の7月盆もあっという間に過ぎ、月遅れのお盆もあと一週間あまり。
いよいよ民族大移動の時期が近づいてきた。
そして、お店で展示している盆提灯もいよいよお別れとなる。
ただ、浅草はサンバカーニバルが終らないと夏の雰囲気は抜けることはない。
町中を飾るあの黄色いサンバの提灯が、いやでも気持ちを盛り上げてくれるからだろうか。
が、店内は盆提灯の占めるの割合が大きいから、なくなるととたんに夏の終わりを否応なく感じさせられてしまう。
そんなこんなで、この時期はいつも悩むのである。
カンカンに照りつける太陽の下、秋のディスプレーにはまだ早いし、夏を惜しむ気持ちも手伝って次への行動が取れないで金縛り状態になる。
じゃあ今年はどうしよう・・・か。
冷夏の影響ですでに秋の様相も無きにしも非ずだけれど、かと言って真夏を過ごした!という実感も乏しいから秋への様変わりは逆効果を生みそうだ。
考えるに日本の四季は、きっちり入れ替わるからいいのだと思う。
春になったんだかならないのだかはっきりしない。
梅雨が明けたんだかどうだかうやむやにある。
夏なのか?秋が・・・、冬が・・・
まるで亜熱帯の住人のような感覚に近づきつつある。
冬夏のそれぞれの厳しさを味わうからこそ、季節の変わり目に喜びを享受できるというもの。
喜びの大きさは、日本人の感受性の豊かさを増幅させてくれたのだと信じる。
こんな季節の変わり目のおぼつかない日本では、これからどうなるのだろう・・・
つまりは、喜びの質を変えないといけなくなるのだろうか。それとも・・・
老婆心ながらそんな危惧すら感じる昨今なのである。
ともあれ、若干少なめの蝉時雨を聞きながら、日本の変わっていく姿を想像している。
沽券図と言う言葉をはじめて知った。
「沽券(こけん)にかかわる」つまり人の値打ち、プライドに充てた言葉の元となる言葉。
江戸時代から土地の売買の証文のことで、いくらで売り買いするという時の証文のことだという。
50歳を過ぎてもこんな言葉も知らないの?と思うなかれ。恥を忍んでの話しなのだ。
その沽券がどうしたかというと、明治初年、詳しくは明治4年12月27日に大久保利通によって地租改正に先立ち、沽券税という形で始まった。
つまり土地の所有者から等しく税金を取る法律が施行されたのだった。
これは実に画期的なことで、江戸時代までは市街地の土地は無税だったのだから。
武士も町民も別け隔てなく、税金を納めることができるようになったのだ。
資料によれば、
沽券(土地の売買証文)に課せられた明治初期の「沽券税」の領収証が、津市一身田町の醤油(しょうゆ)製造会社「下津(しもづ)醤油」(下津和文社長)から見つかった。国税庁税務大学校税務情報センターは「沽券税の執行を示すものはこれまで確認されておらず、極めて貴重な史料」としている。
沽券税は、廃藩置県に伴って明治政府が1873年(明治6年)に実施した地租改正に先立ち導入された。72年後半から、それまでは無税だった市街地の土地に沽券金(売買地価)の1%を課税した。
長々とお読みいただいて恐縮だが、何を言いたかったのかというと、この税金の元となったのであろう図面が公文書館に保存されていた。
そして、その沽券台帳なる図面にわが社念珠堂が立地しているここ、この場所が、1400年をはるか昔、大川からすくい上げられた観音様を私邸に祀った第一号の篤信者である土師中知の子孫が代々、ここに邸宅地を構えていたそのことが記載されていたのである。
見ると明治6年当時四百数十円であった土地は、大正2年の同図では1000円を超えていた。
じつに面白くもあり、不思議にも思う。これも一つの歴史である。
こんなに大切な歴史が人々の記憶から忘れ去られていることに、寂しさを感じてしまうのはおかしいだろうか。
日曜の朝は、隅田川周辺を走った後、自転車で押上に出かけるのが習慣だった。
押上への目的はもちろんスカイツリー。
進捗状況がここに行かないと見えないから。もとい。見えなかったからに他ならない。
けれど、ここ最近は浅草からでも遠望できるようになってしまった。
クレーンが、ではない。
タワーの躯体そのものがにょっきり見える。
それはそうだろうと思う。
10月には100mになりますとポスターでも宣言してしまっているのだから。
あと3ヶ月で吾妻橋にあるアサヒビール本社ビル(ジョッキビル)を抜いて、横浜のマリンタワーとほぼ同じ高さになる。
見ものである。
そんなだからつい現場主義に揺らぎが出てきてしまい、
遠望することで納得してしまうようになったという訳。
この写真はタワーをとったつもりなのだけれど、雲に魅せられてしまいつい雲海の如くの写真になってしまった。
下方真ん中に針の先のようにちょっとばかりクレーンの頭が見える。
そこがタワーの位置となる。
http://www.skytree-obayashi.com/newlytower/index.html 現在が76mと言うから完成したらこの写真の画角一杯になるのだろうか。
風景は随分変わりそうだ。
明日にでも行ってこようっと。