それでもなお

20年来お付き合いのある問屋さんが閉店間際に飛び込んできた。
今日来店するとのアポイントもなかったからちょっと驚いた。
もっと驚いたのは、いつにもなく雄弁であって、切り口上であったことだった。

昭和一桁だし耳も遠くなったから声のでかいのは仕方ないにしても

「もう仕事辞める」
という。

80歳近い歳になって、仕事を受けるため人間関係を保つのに疲れたと言う。

「80歳近くて仕事ができると言うことはそれだけでも感謝でしょ。」
僕が言うと、知らん振りしている。

閉じた耳には届かなかった。

「でもここに来るとホッとするょ」

少し気を楽にして帰路に着いた。

いつか見た空

去年の暮れに足の骨を折った粗忽息子の足に埋っている金具をとるための再手術の打ち合わせに、朝一で赤羽の病院まで付き合わされた。

赤羽はやはり遠い。

半年振りの病院は8時の開始時間にも関わらず超満員状態でほぼ半日つぶれてしまった。

とにかく時間が有り余るだろうと、昨日買った船井幸雄の「資本主義の崩壊最終ラウンド」という本を持って行ったが、意に反して半分の時間は爆睡して過すことになってしまった。

8月の上旬に手術と決まって、愚息はため息を漏らしながら肩を落としていた。

きっとこんな心境かも・・・

二十年の重み

この像の下にはめ込まれている台車

二十年経つと硬質ゴムのタイヤもこうなるんだ・・・

どうりで・・・

瓜生岩子


お客様からいただいた。
「瓜生岩子を讃える会」という会があるのだそうだ。

浅草寺境内にはさまざまな神様、碑、塚が存在する。

一つ一つ時間の許す限り記録して回っているのだが
団十郎の暫の像の近くに、背を丸めた品のあるおばあちゃんの像がひっそりと建立されている。

誰の像だろうと長らく不思議がっていたのだが、銘板を読んでみると、福祉という概念も混沌としていた時代に、戊辰戦争において敵味方の区別なく傷病者の看護に当たり、明治の初頭日本の社会福祉の基を築いた方だった。

野口英代の母親シカをサポートしたのも瓜生岩子であったことは意外と知られていない。

日本のナイチンゲールとも呼ばれた。

http://www.city.kitakata.fukushima.jp/2064/6566/7202/007208.html

福祉やNPOの概念が発達した現在では考えられない時代に先駆的歩みをされた彼女の苦労は並大抵の苦労ではなかっただろう。

蟻の町の聖女といい
浅草はなんとも不思議な縁の町だろう・・・