浅草考
ここ最近自分の中のトレンディーは、なんといっても浅草の歴史。
兎に角かなりの時間を割いている気がする。
もともと歴史(日本史)は大がつくほどのめりこんで好きな分野だし、
仕事の一環で戸籍や過去帳も調査してきたし、それこそ墓石の設計依頼を受けて、菩提寺廻りも長い間携わってきた関係で寺院やお墓はそれこそ好奇心に磨きをかけるよいきっかけになってきた気がする。
調べれば調べるほど浅草の歴史は面白い。
貴重な物証は、残念ながら明治の廃仏毀釈と関東大震災、そして先の大戦で焼け野が原になったこともあって致命的に失われてしまった感もあるのだが、そこにロマンが生まれる要因もあるのかもしれない。
研究の余地がいくらでも残されている気がする。
のめりこんでいくに従って、それに比例して、
浅草寺日並誌など貴重な蔵書も手元に増えてきた。
蔵書名でお気づきのとおり近世の浅草文化史というのではない。
僕の関心事は、ただただ浅草寺篤信者第一号である土師中知つまり浅草神社で祀られている一之宮と浅草の曙のことに尽きる。
何しろ伝説的な部類の話しが実歴史をオブラートに包んでしまっている。
そこがまた神話っぽくて面白くもしてくれてはいるのだけれど。
浅草の語源にもなったという説もある藜(あかざ)の生い茂る湿地帯。
それが推古天皇36年当時の浅草の姿だった。
浅草観音を海中(浅草浦)から網で拾い上げ祀ったといわれる藜堂。
10人の童子の手によって庵は造られた。
藜堂の位置は二つの説がある。
一つが現在、戒殺碑の残る駒形堂がそれであり、
いま一つは、「一之権現社」として今の花川戸公園付近に近年まで存在した、
顕松院という浅草寺の一院であった。
残念ながら顕松院は明治中期に廃院となってしまい、自動的に藜堂も消滅した。
史跡(観音像を始めて祀った場所)としてこれほどまでに重要な堂であったにもかかわらず、いくら廃仏毀釈の嵐の中とは言え、何故、石碑ひとつ残さなかったのか不思議でならない。
そういう意味では駒形堂が藜堂の跡地である可能性が大であると思えてならない。
江戸期には三社祭りも今とはだいぶ様相を異にしていた。
船祭りとしての三社祭りの形態をとっていた。
浅草寺を出た神輿は浅草見附(浅草橋)まで渡御され大川(隅田川)に出る。
そこで羽田在住の猟師たち(先祖は浅草寺周辺の大川で漁をしていた)の漕ぐ舟によって川を遡上する。行き先はもちろん昔、浜成、竹成兄弟が観音像を掬い上げ上陸した地点である。
その地点が二通りあったという説に従って、上陸地点もそのとおりに行なわれていた。
駒形堂前から上陸する年と一之権現から大川に突き当たったところの舟付き場(東参道を東に隅田川の突き当たり)から上陸する年と二箇所を交互に行なわれていた。
二通りの説を江戸の人々は素直に信じて実行していたことになる。
実におおらかなものだ。
一之権現があるなら二、三之権現もあったのだろうがこちらは、はっきりしないようである。
そして藜堂造庵に加わった十童子も十社権現として浅草寺北側に江戸末期まで存在し、信仰を集めていた。
しかも、その末裔も浅草に代々連綿と続いていた(明治期まで嶋田家初め7家系確認できたという)のだから驚きである。
40年ほど前の毎日新聞の特集に浅草の歴史を特集した記事を発見した。
そこには、明治の廃仏毀釈がいかに凄まじく、国策として問答無用に寺院つぶしの嵐として我がもの顔に吹きまくられたかが記されていて、興味深い。
浅草寺と対を成していた浅草権現(今の浅草神社)を大鉈を振るって切り離したいきさつ。
代々浅草寺を守り続けてきた土師中知の子孫であった専堂家もここに消滅したいきさつ(ただし直系ではなくなったが傍系として守られてきたこと)。
代々秘仏として守られてきた観音像を時の権力で開扉させられたこと。
その調査官一行のその後の悲惨な末路など、寺と官権との攻防は、後世に語り伝えられねばならない事として山とあると感じた。
横道にそれたが、僕の店が立地する雷門2丁目18番地先は土師長夷(土師中知の末孫)の屋敷があった場所に位置する。
土地の古老ですら、記憶にない。しかしこれも立派な文化史跡なのである。
文化史跡が浅草には溢れている。
正しくは「溢れていた」なのだが・・・
黎明期のものは地中深くに眠っているだろう。
中世から近世のものは、先の大戦でことごとく消滅したように見えるが、どっこい無形な姿で残されている。
明治大正昭和の急激な近代化の中で吸収していった外来文化を花開かせたのもこの浅草の一面ではあるのだが、その陰に1400年以上続いてきた歴史が土台としてある。
これがまた浅草なのである。
だからここ浅草は懐が深いのだとも感ずる所以かもしれない。
これな~んだ?
ご存知ドラエモン。
はい。そのとおりですが・・・
パ!
正解は、
お盆ちょうちんでした。
どう使うかって・・・
ドラちゃんの道具で亡くなった方に合わせてもらうためです。
うそです。
手の平サイズの大きさです。
もっと小さいminiドラもまもなく集結しますよ。
ローズアメジストのブレス
左下が完成です。
木は大きくなりたがっている
真夏に吾妻橋際で信号待ちするとききっとこの木のお世話になっている諸兄は多いことだろう。
最近目にした大木の倒壊事故が、僕の関心事として、大木を見るとその根っこに目を向かわせるきっかけとなった。
ここも、アスファルトを押し上げて、さらに上へと伸びたがっている気がしてならない。
ど根性大根がことさらテレビに映るのなら、都会のど根性大木たちも、もっともっと取り沙汰されてもいいのじゃないのかな。
夏の日差しから守るため日陰をつくってくれて、
急な雨にも雨だれ除けになってけれて、
青葉は目に潤いを与えてくれて、
枯れ葉は決断の潔さを教えてくれて、
幹の太さは命の重さを教えてくれて、
天にも昇る広い枝ぶりは命の大きさを気づかしてくれて、
巨大な根っこは強くたくましく生きることを教えてくれるんだもの。
浅草のそら
難波淳朗氏の墨絵
いつも座って作業をしている正面の壁から仏画が一枚お出かけした。
故難波淳朗氏の手による弥勒菩薩の像である。
写経で長年お世話になっている佛心寺の永井住職による三人展の客分として出かけることになった。
「三人展」
日時:平成21年6月14日(日) 開場:12時~17時
会場:井之頭画廊 (入場無料・竹工芸及び墨跡は展示即売有り)
仏画-難波淳郎 竹工芸-田中昌斎 墨跡-永井一灯
難波氏はすでに故人となられてしまっているから、この展覧会が最期となるかもしれないと永井師はおっしゃっておられた。
逝かれるのがあまりにも早かった。
これからと言う時に難波氏の訃報を耳にした十数年前、「膝が落ちる」と言う表現が本当にあることを体で知った。
二年間のお付き合いだった。
店のカレンダーを製作するために氏の墨絵を頂戴した。
立て替える前のアトリエにも何度か訪ねた。
命を削り筆を走らすということもアトリエにて知ることができた。
もともと油彩を本業として抽象画を描いていた氏の生き様を知って感動した。
「ペトロ難波淳朗」たしかクリスチャンだった彼の仏教への心は
雷門の店をオープンした時も片肺のない体を押しながら、
テープカットと祝辞をいただいた。
そう・・・
その時は「難波淳朗個展」を企画したんだった。
仏壇のぶの字もない広々とした念珠堂画廊。
昨日のことのようだ。
「またいい仕事をしようね」
それが氏の最期の言葉になろうとは。
三度目の企画は宙に浮いたままとなった。
だから、この永井師の企画展が見納めになるのかもしれない。
墨絵のはずされた壁はしらじらとしていてどこか寂しい。
額装もいい
先日預かった写経。
額装にということで急きょ製作させてもらった。
急ぎ仕事にもかかわらずしっかり仕立てられていた。
軸回しもいいでしょ。
朝の光景
今の若い人はあまり見たことないだろうなあ。
最近の車は随分良くなった。
ぼくら子供の頃のは、ホースのジョイント部や使い過ぎのホース本体によく傷があって、小さな穴があいていたものだ。
作業のおじさんがバキュームして加圧するたびに、ホースから黄金の水が噴出していた。
それをよけながら学校に通ったものだ。
吹きかけられたことは幸いにもなかったが、車が去ったその後には・・・ご想像通りの光景が見られた。黄金の湖。
さて、この吸い取られたブツはどこに行くのだろう。
調べてみると、屎尿処理施設に持ち込まれ、無害化されて川に放流されるとなっている。
石川英輔の大江戸事情などを読むと、江戸時代までは(大正中期まではそうだったらしいが)貴重な資源として買い取り業者がいて貴重な売買の対象になっていたというのだから驚きである。
完全にリサイクルのシステムができていたのである。
大正時代、硫安など化学肥料の台頭で屎尿サイクルの輪は急速に崩れたと言う。
でも、これほどの人口を抱える大都会。食べれば間違いなく排出される黄金色を文字通り黄金にできないものなのだろうか。
いつまで、捨てるしかないという発想を持ち続けなければならないのだろうか。
臭いすら処理されている無臭のバキュームカーを前にふと思った。