浅草のそら

昭和天皇のお言葉に雑草という草はないというけど、雑にしても生きる草と理解したい。

だれが好き好んでこんなところに種を蒔く者がおろうか。ほんのわずかな土埃が寄せ集まった掃き溜めに活路を見値をほばしてゆくのだ。考えたら恐ろしいくらいだ。毎年毎年この場所にはひとにぎりのたんぽぽが芽を出す。わずかひと株ふた株の時から記憶にある。もう群生しているといってもいいんじゃないだろうか。

またそろそろ種を飛ばしていくんだろうね。。。

雑草になろう。。。

浅草のそら

昨日のです。忘れることが多くなったわぁ。。。

浅草のそら

墨田公園の土手の桜は近年大胆ほどの枝払いが行われていて、空を覆うように伸ばしていた桜の枝たちはものの見事に消えてしまった。

原因はアメリカシロヒトリなどの病虫害の影響のように聞き及ぶのだが、さすがに景観の変化はどこか今の時代を見透かしているようで、少しばかり物足りない。

恥ずかしながら、桜が桜としての美を感じさせてくれるのには、花の咲き誇りかたもあるが、ピンクの花弁に目を奪われて忘れがちなそれを装う土台となる、伸びやかな枝の姿が花以上に重要なことに、ようやく気がついた。庭師の兄ちゃん達には何を当たり前なことをと笑われるのがオチだろうが、心底、桜の枝っぷりが花以上に重要だということに気がついたのだ。

桜の花は綺麗さ。

けど目を釘付けにし頭の中を空っぽにしてくれるほどの感動を与えてくれるには、木の姿、樹相が乱れていては心に響くものが半減してしまう。

繊細なほどに伸びて空を覆い隠すほどの枝の乱様のなかに清楚な色が乗っていく美しさに目を奪われるのではないか。

枝どころか幹を切り落とされても健気に生きる努力をする桜たち。

根っこのさきはたぶん写真を撮ってる地点まで伸びているのだろうなぁ。

途中龍の背のような根っこの一部を地上に表し、さらに先へ先へと大地に深行していく。

なんだか感動した。

浅草のそら

あれ!またアップし忘れてた。ボケたかな。。。

3月26日分

3月25日分

浅草のそら

昨夜はこんなに満開状態だったのに。。。

花の満開って、なんだか寂しい。

自分の人生の転換点の時、弘明寺駅裏のしだれ桜が満開だった。花吹雪がやたらと目に焼き付いている。植物にとって花を咲かすということは、相当なエネルギーを使うことだと思う。咲かせる目的もあるだろう。目的を達したのだからさっさと重い荷物は脱ぎ捨てて、緑の葉をふんだんに広げたいだろう。根に栄養を運びさらなる成長の糧を持ちたいだろう。。。

そう考えていくとなんで寂しく思うのかその感傷は勘違いだとわかる。きは大きく成長しようとしているのだか。そうなんだ。

大地に根を伸ばし、大きく成長しようとしているのだ。無言で教えてくれている。

雨に打たれてあっという間にちるぬるを。。。