近くの仏壇屋の奥様と従業員さんが来店された。
目的は、弟子入りだ。
と言うのは冗談だけど、
念珠の製作方法を教えて欲しいと懇願されたのだ。
ちょうどお盆あとで客足もまばらだし・・・
「まあいいか」
と言うわけで、念珠作り教室を開いたと言うわけなのだ。
生徒は、同業者の仏壇屋さんといっても念珠つくりは全くの初心者。
糸のもち方から、伝えないといけない。
「教授するくらいは簡単なもの」と、高をくくっていたのだが…
いざ伝えようとすると、
人の体を動かすのは、なかなかままならん。
あれ?右だったっけ、左だったっけ…
どっちを通すんだっけ…
男結びは、こうだったっけ…
正に悪戦苦闘の連続。
四半世紀、念珠作りをやっていると、
脳みそを通さず、体が勝手に動いてしまっている。
いちいち考えていないということだ。
それだけに、
いざ、言葉に出して教えようとすると、
いちいち自分の手に問いかけないとわからない。
「左手さん、こうだっけ」
「右手さん、紐はこっちに向けるんだったっけ」
と確認しているのだ。
あまりにも当たり前になりすぎていると、
そのありがたみがわからないのだ。
考えると「あたりまえ」は、
身の回りにいくらでもある。
歩ける「あたりまえ」、
声を出せる「あたりまえ」、
食べれる「あたりまえ」、
大小便がだせる「あたりまえ」、
汗をかける「あたりまえ」、
人のいる「あたりまえ」、
空気を吸える「あたりまえ」、
水を飲める「あたりまえ」、
生きていられる「あたりまえ」、
・・・・
挙げればきりがない「あたりまえ」。
あまりにも当たり前になりすぎて、
忘れている。
けれどいざ「不足」になると、
「当たり前」が実は、
全く「当たり前」でなかったことに気づく。
「あたりまえ」は、あまりにも偉大だったのだ。
今日は、「あたりまえ」に、気づかせてもらった。