おお!
もう紅葉
こっちも、
イミテーションは早いなあ…
おお!
もう紅葉
こっちも、
イミテーションは早いなあ…
午後から雨とか
確かに雲が厚い。
この蒸し暑さには、ひと雨きて欲しい。
20歳の8月だった。
もう少し早い時期だったと記憶しているが、
何せ古い資料は破棄されてしまっていて、よくわからない。
仕事場の先輩ら4人で富士山に登った。
夜中の12時に5合目を出発し、ご来光を仰ごうと言う計画だ。
2人は山岳同好会、1人は後に自転車の世界に引きずり込んだ
先輩だったが当時は、単に登山としてついてきた。
そして僕は、初めて富士山に登るというのに、愛車を伴っての参加だった。
その頃ようやく山岳サイクリングという用語が同好誌に取り上げられるようになった。
もちろんマウンテンバイクのマの字もない頃であって、いつもの愛車を下り専用に改造した。
「夏の終りに」というテーマで、富士山を頂上から自転車で下る写真が紹介され、大いに魅せられた。
当時の僕は自転車で峠越えばかりしていたこともあって、
体力には多様自信があったのだと思う。
しかし、山の状況も調べもせず、他のメンバーが小さいザックのみの軽装に比べ、僕は軽いとはいえ12kg超の自転車を、担いでの登山だった。
「若い」というのは、「闇雲」「無茶」という言葉と同義語なのだろう。
とにかく豪快に下ってみたい。
人がすでにやっているのだから大丈夫だ程度で心が動いた。
少しでも乗れるところは乗ろうと考えていたが、甘かった。
5合目からのアタックとはいえ、歩き初めから胸突き八丁の階段の連続。
それでも8合目までは、比較的砂地に足を取られながらも、夜空を楽しむ余裕があった。
ところが、8合目半を過ぎたころ、急に霧が出始めた。
「ご来光を楽しみにここまで登ってきたのに」少々気落ちする。
9合目を過ぎると本格的に小雨に変わっていた。
雷も鳴っていたが、下界から聞こえた。
避雷針を担いでいるようなものなのに、まあよく無事だったものだ。
もう少し上ならいちころだったろうに。
極端な気温の低下で体力が急に消耗し始めた。
頂上が目と鼻の先に見える頃、明るくなった。
本来なら、ご来光だったのに…
山小屋は、雨を避けて超満員状態だった。
「自転車持って来た奴がいるぞ」
どこか遠くで物好きなと言わんばかりの声がしたが、もうあかん。
安堵感に緊張の糸が切れた。
なりふり構わず、人を掻き分けるようにしゃがみこんだ。
気が遠のくのがわかった。
全く動けなくなくなった。
小一時間、気を失っていたのだろうか。
目を覚ますと仲間はいなかった。
その頃には体力がうそのように回復していた。
待ちくたびれて痺れを切らしそうになった頃、
「残念だったねえ」とからかいながら彼らは山小屋に戻ってきた。
仲間は、さらに上にある神社まで行って来たのだという。
余裕があってうらやましいと思いながらも、
「僕の本当の目的はこれからなのだ」
彼らはこれから延々と2000mを足で下らなければならない。
ぼくは、サーと、さっそうと下りを楽しむ。
(ざまあみろ)
自ら慰めながら、下りのルートを探すため周りを見渡した。
そこに目的のブルドーザー道を発見した。
頂上の観測所や山小屋への物資を運ぶ為に作られたブルドーザーの為の道。
これが今回の登山の目的だった。
見ると、
山道は富士の山肌に張り付くように、草木一本生えていない急勾配で、
はるか下界に消えていた。
小雨は霧に変わっていた。
砂地は雨で絞まり、タイヤで下るには好都合となっていた。
(しめた)
「じゃあまた逢いましょう」
さっそうと、手を振って走り去ろうと百mほど下った。
期待以上に出るスピードをコントロールしようとした。
瞬間…
空が下に見えた。
ドッサー!ザザザー
背中から砂地に叩きつけられ砂に埋もれた。
(ううう…息ができない・・・)
一瞬にして、自転車もろとも宙返りをしてのけた。
狂喜乱舞の下りはあっという間に終わった。
(ちゃんと5合目まで下りました。雷が激しくなってそこまで)
頂上から少し下った。このあと空中回転したんだよなあ
またいつかやってみたいなあ…
夏の終わりが近づくと、いつも頭をもたげてくる。
いい空だこと。
抜けてる記憶、情報、背景を埋めていくとでも言うのだろうか。
子供の頃からドキュメントを好んで観ていた。
現代の記録
昭和37年8月11日放送
現代の記録 避暑の断面
疲れているのにNHKアーカイブスだけは見逃せなかった。
ぼくがちょうど7歳の時期世の中はこうだったのかと確認できるから
つい夜更かしをしてしまうのだ。
案の定、当時のドキュメントの撮りかたはシリアスだった。
上層階級の余暇が高度経済成長と共に大衆化していく。
レジャー資本とマスコミの影響で中産階級の意識が変革されていく・・・云々
見ていると上層階級というものがかつての日本には頑としてあって、
階層社会を戦後は次々に塗り替えてきた。
そんなに重い話題ではないと思うのだが、労働運動華やかなりし頃ゆえか、
やたら小難しい用語がアナウンサーの口から飛び出す。
時代を映していた。
でも社会の圧を感じる創りだ。
これが当時のドキュメントの作り方だったんだろうが虚しい空気が漂う。
よく子供時代から好んで観ていたものだと思う。
すると、結果としてこんな人間になるのかなあ。
たまーに行う家族サービスは、
何故にこうエネルギーを使うのだろうか。
仕事で2、3日徹夜したほどに疲れる。
普段つかわない筋肉や神経がそうさせるのだろうか。
もうふらふら。
お直しで預かった虫食い珊瑚も
房をつければこんな立派になる。
よくまあ…
枯れているなあ。
これも趣きだ。
明日は、野暮用でどうしてもお出かけ。
相棒も「家族サービスしたいから休ませてくれい」
と聞かないものだから、
10年ぶりにお店はお休みとあいなった。
秋には、お餅つきでまた日曜日に休む予定なのだけど、
まさかこれに味をしめて、相棒の奴、
「親孝行したいから休む」なんて意わんだろうなあ…
などと思いつつ、明日は久しぶりに羽を伸ばすのだ。
と言ってもコブ付きだからなあ…
サンバだからって
お店のおねえさんがしてくれたんさーー。
けどね、けど・・・
・・・
・・・・・・・
ちょっとかっこ悪くね…ぼく。
脇侍を入れた不動明王。
日本人の手による彩色には、一朝の分があります。
どう伝えたいか、何を伝えようとするのかが
彩色の濃淡にも、地紋にも現れている気がします。
素材は楠を使用。
明王系の楠材は、その香りの鮮烈さに
明王らしさを香りでも表現しているようで
欅(けやき)と同じくぼくの好きな素材です。