椿を目にする季節。
椿と言うと、雪の中に可憐な赤を演出するイメージ。
寒風の中、大島を旅したときの記憶と、
そして、店を共にに支えてくれた椿好きの一人を思い出す。
どうしているだろうか・・・
時の流れの速さに驚嘆する。
椿を目にする季節。
椿と言うと、雪の中に可憐な赤を演出するイメージ。
寒風の中、大島を旅したときの記憶と、
そして、店を共にに支えてくれた椿好きの一人を思い出す。
どうしているだろうか・・・
時の流れの速さに驚嘆する。
雲がいっぱい。
気温はあまり上らずというところでしょうか。
羽子板市は今日まで。
羽子板を持った人が本当に少ない。
納めの観音には来ても、門前の市は賑わうだけ…
ちょっと寂しいなあ。
羽子板に対しての意識の部分…
魔を祓う、厄を祓うという部分が
すっぽり抜け落ちちゃっていんじゃないのかな。
形骸は残っているけれど、なぜ持つの?何故必要なの?
の部分が欠如してしまっている。
いまどきの建物で羽子板を飾るスペースが…
なんていうことではないような。
でもこれは、仏壇業界にもおんなじことが言えそうでもある。
なんで仏壇を飾らないといけないの?
仏壇を飾るスペースが…
なあんて、まじめに考える人はまだしも、
はじめから、話題にも乗らないなんてこともざらだろう。
あんまりにも身近にありすぎたゆえに
その存在の大きさに気づかないものって多いように思う。
日本の文化のたがが外れたら、元には戻らない。
でもそういう前兆って、
じわじわ身近なとこから迫っている気がする。
ようやく正月のための販売員の手配が終りほっとした。
いつもながら、暮れから正月にかけては、
浅草寺への〆の詣でと初詣の人の波が押し寄せる。
向かえる側もそれなりの用意をしないと。
と思うのだけれど、毎度の事ながら気付くと年を越えている。
何もしないままスルーしてしまっても
別段どういうこともないのだが 、
除夜の鐘を聞くその瞬間まで、
「やり残し」はないかと何故もこう心が急くのだろう。
年が替わるといっても、
グレゴリオ暦上のことであってイスラム暦や和暦では、
替わるわけではない。
開き直って考え直してみれば、
昨日から今日に替わるだけのことである。
・・・なのだけれど、
忙しなく心の中では「今年中に」と「何か」を探すし、
「来年には持ち越せない」などと、膨大な仕事量を決めている。
と思いつつ、後半に入った暦を見ながら、ため息をつく。
露水晶にラピス+ムーンストーンの二天
親玉に生まれ年?の梵字。
NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」を食後にごろ寝しながら見ていて
そのまま幽界に迷い込んでしまった。
テレビでは小学校にあがる前の子供時代、
一時預けられた母の田舎が放映されていた。
宮城県丸森町。
うちの田舎はそこからさらに山に入り、
福島側から超える官軍と戦った山城のあった金山という
小さい部落なのだ。
とにかく方言が強いところだ。
寒い地方では、口を大きく開けずに言葉を発する。
単語は短くなる。
悠長にしゃべっていたら口の中が凍ってしまうからだろうか。
青森の自分を「わ」相手を「いが」という言葉がいい例だろうが
そこまでは短くないにしても、口は大きくは開けないでしゃべる。
最近の若い人の口からは、ほとんど方言が消えた。
テレビの影響と言うのか、
情報化社会は全国民を平準化教育してくれるようだが、
それも良し悪しだと思う。
けれど80歳を超える、じいちゃんばあちゃんの言葉には、
懐かしいイントネーションと誤謬が溢れんばかりに残っていた。
その土地独特の気候風土と文化の中で培われてきた言葉には、ギューっと、そのエキスが詰まりに詰まっている。
6歳のときに身につけた方言はとっくに忘れているのに、
耳は覚えていた。
その心地よさに、「眠ってきない~、休んできない~」と
聞こえていつのまにか撃沈してしまったと思われる。
(上さんは、九州人ゆえ東北弁は今でもわからないと嘆く)
毎日店に訪れる外人客には、まず耳から覚えるとしようか。
それぞれ、作者の思い入れのあるセット組。
主玉も、二天も、親玉も。
梵字彫りたぶん干支にちなんだ梵字と思われる。
とても珍しいのは、
お名前を梵字の音に当てはめて彫り、
その玉を組み込んでいるところにある。
羽子板市一日目。
いい天気。
ある量販店のトイレにて。
用をたしながら、ふと前を向くと。
いつも見る「汚くしないで下さい」的な注意書きとは、
全く逆説的に書かれている。
「○○するな!」
「○○しよう!」と言われると、
あ!そうなっていないんだ。だから叫ばざるを得ないんだ。
標語は、出来ないから標語なのだ。
と心のどこかで思っているし、
注意書きは、できないから注意書きなのだ。
「きれいに使って下さい」は、
日頃きれいに使ってくれないんだな。
「渡るな危険」は、
危険なのに渡る人が多いんだな。
てなものである。
「いつも美しく使ってくれてありがとう」
とこられたら・・・
「どういたしまして(そんなにきれいに使ってないけど…ごめんなさい)」
と神妙になる。
なんとも人の心理は言葉一つで、
天と地の開きとなると思った。
すっぴん!
毎土曜日恒例の買い出しの帰り道、
本堂を通り雷門に抜けようとすると何やら境内が騒がしい。
宝蔵門の前でトンテンカン、トンテンカンと作業している群れがいる。
映画のセットでもこしらえているんか???
と、しばらく見ていると、そうでもなさそう。
小ぶりの茶店のような、いつも見受ける出店ほど華奢でもなく、
若干重層な造り。奥山の江戸風出店かと思った。
黒いひな壇には何が乗るんだろう…
とそこまで想像していると、
羽子板
あ!そうか。もう羽子板市じゃないの。
何度も口にしながら現実目前に迫った「羽子板市」は
すっかり頭から離れていた。
師走はいつもこんな感じになる。
気付くと、もう2月。
なんていうことも毎年の事である。