散華
近所に住む元朝日新聞天声人語執筆員のおじいちゃんに、
「見なさいよ」と念を押された知覧のドキュメントを拝見した。
冒頭から泣けて泣けてしかたなく、
家族の手前、テーブルに顔を横に倒しくっつけたまま、
最後まで顔を上げることができなかった。
以前靖国神社の遊就館の売店で手に入れた「命の言葉集」を買い求め
特攻で散華した若者の遺書を何度も読んだ。
読みながら、同情の涙を幾度も流した。
けれど、当時の最高学府を学ぶものたちも含め、
これほど非人道的な兵器によく乗ったものだと思った。
戦争とはそういうものだと言われればその通りなのだが
否応なく応えなければならない時代の空気はもちろん考えなくてはならない。
そうした条件を差っぴいても考えをはるかに超越した何かを感じざるを得なかった。
あるとき当時の若者たちが何を望んだのかを知る機会を得る機会があった。
特攻に出たとしても、この戦争は負ける。
自分たちが散華したところで戦争の結果がどうなるものではないと百も承知していたという。
負けることはすでに肌で感じ終局は変化できずとも、後に続くものに託すと。
自分たちが散華することで、後の日本人がその魂を受け継いでくれるだろうことを信じ飛び立つのだと。
そういう彼らの観念を知ったとき、
ただ可愛そうだと思う、ヒューマニズムだけで理解してはいけないのだと感じた。
現代を生きる自分たちには責任がある。そう感じた。
浅草のそら