TONちゃん力車に乗る

TONちゃん初めて人力車に乗る。
浅草にはうようよと言うほど人力車が走っている。
当たり前にあると、かえって使わないもので(東京っ子が東京タワーに行かないようなもの)。
仕事相手の配慮で夜の集会場所が難しいからと車を迎えに来させてくれた。

「お迎えにあがりました」
と来られると、不思議な気持ちになる。

いつも見る光景なのに非日常に塗り替わるからこれはおもしろい心境変化だと思った。

以前は浅草で時代屋の俥夫を5年積んだ後、谷中で音羽屋という屋号で独立した。
今風に言えばイケメンの車引きのお兄さんというところだろう。
地元でも人気があるみたいだ。

浅草では俥夫と地元とトラブルが多く困惑したと言う。
地元に愛される人力車をしたい、が独立の動機とか。

タクシーのような無骨さはないし、走る速度も、見下ろす町の角度も、走る道すがらも、いつもの風景のはずなのに異次元さを感じることができた。自転車の次にたのしい乗り物だと思った。

谷中のあの山坂をブレーキのない人力車で走るというのはなかなかの凄腕(凄足というか)。すごいですね。と言うと、品川まで走ったのが最長ですね。とはにかみながら話してくれた。

http://okazakiya.com/site/otowaya.htm

日暮里に行けば会えます。

ご縁

だれかが置いていかれたご縁玉。

だいたい察しはつく。
いつも帰りがけ外の小僧さんの頭をなでて手を合わせて行かれるあなたでしょ。

粋なことをされますね。

お彼岸の思い出

子供時代、お彼岸と言うと、父の墓参りが一大イベントだった。
当時住んでいた、横浜の白楽から父の墓のある西東京の田無まで、子供心には結構長い家族旅行であった。

渋谷までは東横線で一本だが、西武新宿線は当時、高田馬場を始発としていた。
ゆえに渋谷→高田馬場間は、国鉄を使わなければならなかった。

当家はどうやら全員が方向音痴のようで(要するに母譲りということなのだろう)渋谷駅が近づくとひそひそ話しが始まる。
「絶対離れちゃダメよ」
「迷っちゃうからね」念には念を入れて母は子供に注意する。
子供は子供で「お母さん迷子にならないで」と心に思っている。

母の緊張はこちらにひしひし伝わってくる。

過去何度も乗り換えに失敗している因縁深き駅なのだ。
だから乗換えが複雑な渋谷駅を前に手に汗を握る緊張のひと時なのだった。

高田馬場駅で国鉄から西武新宿線への乗り換えは実に楽だった。

ただ、西武線は当時とにかく時間がかかった。
子供心にも、そう感じた。
目的の花小金井駅の一つ手前で鈍行に乗り換えるのだが、これが恐ろしく待たされる。昔と言えど横浜市内の喧騒さと比べれば話にならない静けさだった。
亡き父が学生時代はたぬきに道案内されたと言う話もまんざらでもないと思う瞬間だった。
ひばりのピーヒョロローの鳴き声も聞こえてきて、なんとも牧歌的な風景でいつもここで眠くなった。

手入れが行き届いているとは言い難い草ぼうぼうの軌道敷きと、高圧線。弧線橋ではなく、駅構内の踏み切りで上下線の乗り換え(田舎の駅そのもの)、4両編成がせいぜいの短いホーム・・・
彼岸花が咲く川岸と相まって、今だに西武線=田舎電車が僕のイメージから抜けないのである。

商店街の船出

ついに店舗前の路地が商店会の仲間入りを果した。
9月5日にめでたく船出することができた。
まさしく出来たてホヤホヤだ。
10数軒の小さな商店街ではあるけれど、夢は大きい。
初代商店会長に任命された。
さてさて、どこまでその夢に近づけるかワクワクものなのだが、
とにかく瞬間で浅草を感じれる通りを創らないとね。

会を立ち上げていく中で、不思議な縁を知るにおよんだ。
自分の先祖がここ浅草に120年以上前に一宿一飯の恩義で
浅草花川戸に住まっていたことは、周知していたのだが、
わが店のあるちょうどこの場所に、
三社権現の一之宮にあたる土師中知(はじのなかとも)の住居がこの一帯にあったことを知った。

観音像を宮古川から拾い上げた直後の庵ではないとは思われるが、
阿弥陀の化身とされる中知の住居には阿弥陀如来が奉安され
多くの参拝者が訪れたという。

その跡地に仏具を扱う店をオープンさせてもらったのだから・・・
不思議な縁だなあと思いながらも、さらに調べてみたい衝動にかられている。
ちなみに、商店街の名は一之宮にちなんでつけることにした。