浅草のそら
同情心
同情心
過当競争の中で生き馬の目を抜く現代社会の中で何を青臭いと考える輩もいる。
現に何度も何度も耳にしてきたし戒めとして警告してくれた先輩もいた。
「情けは人の為ならず」
これを情けは人の為にならないんだと理解する者もいるというから驚きではある。
「教学相長ず」
礼記の一節にある言葉だが、教えつつ自らも共に学ぶという。まさに言って妙である。人を育てる教育の現場のみならず、労働力のみに派遣労働者を使い捨の駒にしか考えられない経営者に対する一喝する言葉でもある。
確かに真理だと思う。
相手のために尽くす行為に美徳を感じなくなる社会。
つまり1+1=2、1-1=0の人間関係の社会。
ぼくには信じられない。
人の心の奥底には、そんな関係ではいけないと排除する心が宿っていると経験値として持っている。
人に尽くすを粋に感じるのだ。
さらに言えば宗教心とは、その利他心の極地なのではないかと思う。
道に倒れている人を見れば自然体で救助に体が動く。
それが宗教心と思う。
隣人の涙の落つるを見れば、全ての持てるものをかなぐり捨てれるものが宗教心と思うのだ。
何も仏前でナムナムしているから信仰心、宗教心があると言うのではないと考える。
それぞれ信じる宗教の宗祖が歩んだ道を学べば誰もが同意を得てくれるだろう。
その心に表現の違いはあれど共通した心は感じるはずだ。
民衆の生老病死に心を痛めて道を求めたお釈迦様が今の時代に生きていたら、弘法大師が、最澄が、日蓮が、道元が・・・どう動かれただろうかと思うととても興味ある。