子供の頃から地図を見るのは大がつくほど好きだった。
まだ見ぬ地形や風景を地図から予測する。
そんな中から自分の姓と同じ地名を九州と新潟と四国に見つけ、さらにのめりこむことになる。
いつか地図を作る土木の世界に入っていったのだから、好きが高じていくと何らかの見返りもあるものだと思う。
土木の世界からはスピンアウトしてしまったけれど、相変わらず地図はよく眺める。
一時期、路面電車と近郊電車の世界にのめりこんだ関係で古いとは言っても明治期程度の地図と現代地図を見比べることにがっちりはまった。
さらに最近は、江戸古地図との比較に興味は広がった。
明治期から現在は、関東大震災後の復興計画で大幅に街路の姿が変わった。
さらに大戦後の混乱で都市計画もままならないまま無計画に町の仕様が変化した。
そしておまけに行政の無策さは、由緒ある町名を消した。
その両方を併せ持つくらいに変化したのが、都市としての江戸から帝都に切り替わった時であったろう。
この大変貌ぶりは、ドラマチックでさえある。
わが郷土となる浅草はというと、比較的おとなしい変化のしかたではあるが、そこは廃仏毀釈の嵐に荒れ狂った明治初年のこと、大鉈は社寺をいやおうなくぶった切った。
由緒ある寺をも廃寺に追い込み、領地没収による公園化や民家への払い下げなど町の秩序と景観を狂わせた。
下の図は明治初年の地権者入りの浅草の地図。
明治7年となっているのだが、概略は江戸期のものを利用していると思われる。
右端を縦に流れるのは隅田川。右下には駒形堂が記されているが現在地とは異なる(現在はこの図の位置より数十メートル上流に移設されていて旧来の地には浅草通りが東西に通っている)。もちろん駒形橋はまだない。
もちろん国道6号線はなく、奥州街道のせまい通りが川沿いに北上していて、吾妻橋との間が宿場町の雰囲気を醸し出して見える。
浅草寺はほとんどが国に没収の憂き目にあい宝蔵門近辺の一角のみで、本堂付近は公園と化してしまっている。
地図上でピンクに塗った場所がわが念珠堂の含まれるところ。
実はこの広さ430坪の土地が以前このブログ上でも何度か触れている、墨田川からひろいあげた観音菩薩を丁重に祀った浅草寺開基の祖と言ってもよいはずの「土師中知」の子孫が代々清んでいた住居跡である。
江戸時代までは専堂屋敷と呼ばれていた。
代々土師専堂(専当坊)を名乗っていた。ついでに言えば観音像を掬い上げた漁師の兄弟である桧前浜成の末裔は斉藤坊、桧前竹成の末裔は常音坊を名乗り半僧妻帯を認められ浅草寺を取り仕切っていた。
ちなみにここの旧地名、材木町と花川戸町、山之宿町は宮本三町と呼ばれ三社祭りになくてはならない大役を任されていた。
現在の同地点と比べるとその変貌さがわかると思う。
赤いマーキングが念珠堂の位置。
ちょうど専堂屋敷裏の路地が当店前の通りとなる。
浅草発展の功労者、土師氏の由緒がここにあるのに、看板一つ残さず、史跡の名残もないのはおかしなものだと思っている。
だいたいにして「土師中知」と聞いてちゃんと答えられる浅草人が何人いるだろう・・・