分骨ということ

ネット上には、限られたものしか出せないのですが、念珠堂にはご供養に必要な商品が揃っています。

もともとお墓の製作をしていた関係もあるのと、供養の形の変化で分骨を手元に持っておくということが定着しつつあるように感じるのです。

そうした背景の変化に伴って、分骨のための小さいケースを探していらっしゃる方が年々増えている現状があります。

少しそのレパートリーをあげさせていただきまね。


左は黄瀬戸焼 右二つは銀チヂミ(普通の白いカメに表面処理したものです)

蓋を開けて内側を見ましょう。

九谷焼の代表柄のひとつ銀彩。

ピンクとブルー・グリーンのグラデーション。
香炉としての体裁もあるくらいかわいい。
銀のホヤを乗せれば、香炉として本当に使えますね。

こちらはずっと以前からの定番商品。
大理石をくりぬいた分骨壷です。

死は悲しい事実でありますが、決して忌みごととしてのみ受け止めるものでもないと思うのです。

故人に恥じない生き方をしようと思う出発の日でもあるわけですものね。

参道らしさが見えてきた

我が商店街の通りの近況です。

浅草らしさが何となく伝わってくれるといいなと思うのですが。

雪まで降って祝福してくれました。

ただ、工事が遅れちゃうのが困ってしまうけれどね・・・

勝って兜

学生時代に後悔していることがある。(山ほどね)
他から見ればたわいもないことかも知れないけれど、TON店長にはそう些細なことでもない。

中学時代は剣道部に在籍していた。

入学早々、担任の先生はどうしたことかクラス全員に順番で「おまえは何部に入るのだ?」と言わせたのだ。

まったくクラブ活動など頭になかった僕は、自分の番が来たときにはたと困って、どうしたものの弾みか「剣道部に入ります」と答えてしまった。

横浜有数の不良中学だった当時の母校では身を守る術をそこに求めたとはちょっと言いがたいが、まんざら全く見当違いではもなかったかも知れない。

小学校のとき1500mのマラソンの授業で工程のど真ん中でゲロゲロとやってしまったほど虚弱体質な僕が果たして剣道部など持つのだろうか、自分の口はもののけに支配されたのかと思うほど後悔した。

運動部など全く想像すらできなかった家族の不安を一身に背負いクラブに通いだした。
案の定、第一日目は、15分も歩けば帰宅できる中学からの道のりを2時間近くかけて帰った。

半歩歩けば立ち止まり、半歩歩けば座り込み、よく帰ってこれたものだと思う。
そんな出だしがうそのように一年後には、そんきょで校庭何週っといった無謀な命令にも絶えられる体ができていた。

そんなおり、前々から何かと言えばつっかっかってくる部活仲間のH君と試合をする羽目になった。審判を買って出たのはH君の小学校からの先輩各にあたるSさんという人だった。

同門相打つ勝負を止めることもないまま、試合という名目の果し合いとなった。
H先輩は、筋のよいH君の勝利を確信していた。

かぶった火の子は祓わねばならぬ・・・心を固めた。

面をかぶって竹刀をあわせた。
頭が真っ白になった。

何故ならば・・・
面をつけたのはそのときが初めてだったのだ。
H君は筋がよいということで先輩から認められ数ヶ月先に面をつけることを許されていた。

こりゃ僕を負かすのは、赤子の手をひねるより簡単なことだった。

が、どうしたことか奇跡が起きた。

相手の動きがスローに見える。
しかも体全体はぼやけているのに、小手だ、胴だ、と隙がはっきり見える。
どうぞ打ってくださいとばかりに打つ場所を示してくれている。

小手と胴を打って、短時間で勝負はついた。
相手はがっくりうなだれた。

僕はと言えば、信じられない展開に度肝を抜かれた。
われに返った時、自分の力で勝ったわけでもないのに、勝つとはこんなものかと舐めた。

そして有頂天になった。

半年近くクラブから遠ざかった。

そんな僕を見かねて、竜馬の乙女姉さんのような姉に促されながら、クラブに戻ることなった。
敵もさるもので、待ってましたとばかりに、いの一番に指名し、僕はぼこぼこに打たれ続けた。
もちろんH君にである。

それ以来、二度と道場に足を踏み入れることはなかった。

勝って兜の緒を締めよとは、まさに自分のことを差しているのだと、めっぽう痛い教訓を学ばせてもらえた中学時代だった。

あそこで天狗にならなかったら・・・
ぼこぼこにされても仕方ないじゃん。休んでいたのだから。自分が悪い。彼はあの後、頑張ったんだ。と謙虚に忍耐強く練習を続けていたら・・・

歴史にも自分史にも「if」はあってはならないとわかっていても、時々頭に浮かんでくるTON店長なのであった。

お客さんのN君と話しながら、このことが頭によぎった。が、口には出せなかった。
ある一線まで忍耐することは必要なんだよね。