大き目の馨子(リン)をゴンゴンと叩くと、決まって
「むじょうじんじんみみょうほう・・・」

の言葉がついついついて出てくるのです。

仏教者ならば、当たり前のこととして仏前でお経をあげる前の常套句の如くのお経「開経偈」であるわけです。

これから読誦させてもらうお経は百千万劫にも遭うことが難しいものなのだと感謝と感激の導入句。

ただTONの開経偈は開経偈でも人とはチョット違うのである。
自分を特別視しようなどと思うのでは毛頭ないのですが・・・。

じつはそのお経には旋律が乗っている・・・いやいや正しくは旋律にお経が乗って口をついて出てくるのだあります。

だから法要に参加するときには当初ちょっとこまった現象になってしまうのです。
厳粛な顔をしている参列者のなかで、ひとり鼻歌を歌っているのですから・・・。
でもそれはTON的にはお経を読んでいるのであるのです。

でも、周りにはわっからないだろうな・・・

馴れてきてしまえば、だれも気がつきゃしないだろうくらいに一人で歌っているようになったのでありました。

お経を読めば歌になる・・・。そうなったにはそうなった原因があるのでありました。というのも長くお世話になった真言宗智山派智韻寺の住職である新堀智朝尼の創作された讃祷歌の曲の中に原因があったのです。
師は宮沢賢治のことば「これからの宗教は芸術。これからの芸術は宗教」を文字通り実践された方でしたが、諸尊諸菩薩を歌にされた方でした。三帰、開経偈、般若心経、普回向とまさに宝前での勤行どおりの曲もあるのでありました。

歌い込みもし、歌い慣れもし、細胞に擦りこまれている感じなのでありました。

かならず「三帰」の旋律が頭に浮かぶ。
ついで口ずさむ。
開経偈、心経へと細胞がかってに喜んで旋律を奏でているのだから・・・
しかたない。

智朝尼の13回忌がとっくに過ぎているのに、今だに心は勝手にお経を歌うのであります。