ようやく中国語を店内で耳にした。
3月11日の地震から43日目にして最初の一組だった。
いや二組・・・三組と中国の言葉が店内を席巻した。
地震後、殆どの外国人が退去してしまい、マスコミの発表では50%減とか、70%減とか・・・
そんな数字を発表していたが、いやいやそんな甘い数字ではなかった。
99%減。
あきらかに外人の姿は浅草の町中から消えた。
行きかう人は、みな東洋人の顔をした日本人ばかりとなった。
逆縁とでもいうのだろうか裸の浅草が僕ら浅草の人間に、こうだと突きつけられた形となった。
ここに来られる日本人の実数がよくわかった。
地震前は国際色豊かで、日本人かと思っても中国、台湾、韓国、ベトナム、シンガポール・・・もちろん西洋人は見間違うはずはないが、どれほど多かったことか、今にして思えば、たいへんなものだったとしか言いようがない。
地震、原発というフィルターがかけられたとたん、実相が見えてきて、いかに浅草が国際観光都市の一端をになっていたかをおかしなもので充分理解させてもらえた。
あって当然なんてなにもないんだ・・・
積み重ねがあって、努力があって、町も形成されてきた。
先人の苦労の上に、自分たちの生活が成り立っている。
今を教えられている気がする。