浅草のそら
半装束念珠の改装
生メノーとオニキスの半装束ですが、白の菊房が一般的なところ
こういう色合いはバランスのよさを感じます。
懐かしい・・・
一体何年たったのだろう・・・・
店の倉庫は想い出の坩堝と化している。
と言うのも言いすぎだし、よほど整理整頓ができていないように受け止められてもいけないのだが、今まで活動してきた証拠品は、証拠品として残しておかないといけないと思っているだけの話しで、時代が埋もれている。
最小範囲で残して、あとは電子化するなりにしておこうと選別している。
どうだろう・・・出てくる出てくる・・・
小学校のタイムカプセルごっこは10年せいぜい20年で掘り出されることが多いと思うが、その域に達しているように思う代物も今回の捜索で数々掘り出された。
その中の一点となるが、讃祷歌の中国公演に合唱団の一員でついていったときの物だ。
川﨑大師の今は高橋隆天げいかを団長に恩師になる新堀智朝尼のお寺の詠唱団メンバーと西安、北京と回り、中国仏教会の重鎮の前でも歌わせてもらってきた。
何を歌ったのかきれいさっぱり忘却の彼方だったが、譜面を見るとあれよあれよと頭の中で3Dも真っ青、その光景それに当時の感動を添えた旋律が流れ出す。自動的というならばこれほどオートマチックなことはない。人とは不思議な器を与え備えられているものだと感嘆する。
もう二昔前の出来事になる。
みな故人になってしまった。
浅草のそら
品川宿
品川に勉強会で出かけた。
行く先は京急の青物横丁(あおものよこちょう)。
「やおやよこちょうどこですか?」と駅を聞く人も多いという笑い話もある珍名の駅のひとつ。
品川にはいくつかお付き合いしていただいているお寺もあったけれど、車でしか通らないから、駅を降りて歩いたのは初めてじゃないかな。
アイホンで道案内してもらいながら、目的地までショートカットしながら歩いていると国道と並行した裏道なのに趣きのある小道に出た。
少し歩くと古い寺が多くこの裏道に面している。
概して旧街道に多いパターンである。
と、言うことは・・・
旧東海道?
と言うことに気付くのには時間はかからなかった。
用事は早々に済ませて帰りは歩こう。
そう決めた。
東海道の松
時代を感じさせる。
あちこちでお神酒所の仮屋つくりの真っ最中。
そういえば山王祭とフラックにあったのを思い出した。
江戸時代から続く大祭だけにその本家本元の神社を訪ねてみたくなった。
品川橋という橋の近くに朱に塗られた太鼓橋を発見。
車は通れません。人も立ち止まることはできません。
つまり事故責任で渡るならよろしいのだ。
そーっと渡る。
荏原神社。
ここが山王祭の主神の鎮座される神社と言うことなのだ。
ちなみに山王とは素戔嗚尊(すさのうのみこと)をさす。
天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟とされ乱暴者で追放された神様と言うことになっているその神様だが、祇園祭も同じく素戔嗚尊のお祭りということはあまり知られていない。
道のカーブもどことなく東海道の装いを感じる。
途中にあった街づくり協議会の建物。
お休み処になっている。
建物は品川区の持ち物で、地元が運営している。
子供たちが時間をおかず出入りする。
面白い試みだと思った。
北品川であるこの当たりでも同時にお祭りがあり、街道沿いはずっと祭り準備に忙しそうだった。
浅草には見られない神輿の姿。
貫禄がありました。
古い資料には、浅草でもこうした山車が各町内にあったと書かれていたが、震災や戦災で全て失って再興されることはなかっただけに、小さい山車だけれど何となく彷彿させてもらえた。
一見するとなんの変哲もない路地のようなとおりなのだが・・・
この先の京急の踏み切りを渡ると国道と合流する。
ここから右に海を見ながら日本橋まで江戸の人々は旅の終わりを惜しみながら歩いたのだろう。
江戸の人々を優しくいざなった、寄せてはかえす海の白波ではなく、今はひっきりなしに行きかう電車の群れと喧騒がTONの足を重くさせた。
浅草のそら
もう盆ちょうちんの季節
東京のお盆は早い。
自分のお店はちょうちん屋じゃないなどとたかをくくっていたから、毎年7月ギリギリに下手をすれば7月に突入してからの飾り付けとなっていた。
が、どうした風の吹き回しか今年は、6月に入る前に準備万端整えた。
5月から盆ちょうちんを買い求めに来られるお客様がちらほらいらっしゃったことが、よし!とばかり、気持ちを改めさせられたのかも知れない。
お店の帰り支度をして店内の明かりを落としていくと、盆ちょうちんだけの灯りが唯一残った。
つい見とれてしまった。
きれいだなぁ・・・
つい癒されてしまった。