いつも有るはいつもない

昨日は、いろんなゲストに深く考えさせられることばかりだった。

その中でもとりわけ印象に残ったのがこんなことである。

念珠直しを持ち込まれた年配のご夫婦があった。

お二人共品がよく話し言葉にも心遣いを感じる丁寧な言葉だった。

有名寺院で求められたという金剛菩提樹の念珠は房もしっかりしているし、通し糸もまだまだ大丈夫。

「?」なぜ直すの?

と、疑問に想う心を見透かされたか

「指が曲がってしまってね、合掌したまま念珠の輪に手が入らないんだ」

たしかに薬指が鋭角に曲がって伸ばしようがないようで片手念珠の輪の中に合唱すると入らないだろう・・・

「玉を足して作り直しましょう」

ホッとひと安心されたようで、お付きの奥様に

「直せるようですよ。おかげさまで・・・」

ん?お陰様で?ずいぶん丁寧な御夫婦だと思った。よくよく尋ねてみた。

なんと奥様と思っていた女性は、浅草寺の行事に参加するために池袋から浅草行きのバスに乗った。
たまたま乗り合わせたバスの中でお客様の男性と念珠の話になったという。

念珠のことなので当店にお連れくださった。というわけだった。

浅草寺の行事まであと30分だという。

「池袋行きのバス停までご案内しますわ」と二人で帰られた。

今の時代にもこんな方がいらっしゃるのかと後ろ姿を見送った。

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バリバリ、どすん。ぎしぎし。

商品の落ちる音だろう。ふと振り返ると電動車椅子が車幅ギリギリの通路でストップしていた。

「私は天台の僧だけど袈裟はあるか」
と聞いてこられた。

ただしくは、書いてこられた。

声帯を取られたのだろうか、小さいホワイトボードに筆書されて尋ねられた。

住職用は取り寄せになる旨を話し、急ぐならば法衣店があることを紹介した。

「そこに行きたい。道がわからない」
となり、地図をコピーし赤ペンでマーキングしながら説明した。

「ありがとう」

ホワイトボードにそう書き替えられた。
「どういたしまして」

低音のモーター音を響かせながら店を出ていこうとされた。

店前にはちょっとした段差がある。
先回りして、もしもに備えた。

手を貸すことは必ずしも良いことではないので脇について見守った。

無事着地。

再び先程のありがとうの書いてあるボードを振って大通りに向かわれた。

ふと3mも進んだあたりで車椅子は止まった。

ボードを出して「ありがとう」を白手袋で消し、何かしら書き始めた。

不審に思って近寄ると、気づかれないのか懸命に書き続けている。

「声が出ないので、お経を読めません」

言葉に詰まった・・・

ボードを振りながら白髪の電動車椅子の僧は何事もなかったかのように、器用に歩行者を避けながら走り去った。

残されたTONは固まった。

「ありがとう、さようなら」なら話の筋としてわかる。

最後の言葉はこの時点で何を意味したのだろう。

気をよくして本音を話したかったのだろうか・・・
身内ではないゆえに心の重荷のわずかでも理解してちょうだいと残されたのか・・・

健康というのは綱渡りよりも難しい。
綱から落ちかけると元に戻すために全身の筋肉を駆使してバランスを戻そうとする。

バランスが取れているときは、平気の平ざでスイスイ先に進むのに、一度バランスを失うと元に戻す苦労がいかばかりかを初めて気づく。

健康にしてもそう。。。
社会生活にしてもそう。。。
人間関係にしてもそう。。。

「有ってあたりまえは、なくても当たり前なのだ」と気づく。

有るは、無いのだ。

お二人共ほんとうにありがとうございました。

また気づかせてもらいました。