浅草のそら
浅草のそら
そう。今日は青年将校たちによる反乱である二・二六事件の日。昭和11年当時は東京は雪模様だったという。この事件以降、陸軍内の皇道派は影を潜め統制派に牛耳られる形になっていったという。
浅草のそら
宗吾殿消える・・・
御徒町に用を足しての帰り道。必ず通る裏道には寺の軒が連なる。そんな風景を見ながらのんびり帰るのがいつものこと。国際通りを越えると都会の真ん中にありながら異風の建物に出くわす。始め見たときには古臭いお堂。よく生きながらえたものと感心したものだが、よく見れば歌舞伎役者たちの堂々たる名前の玉垣に囲まれ、その聖域が歌舞伎役者の庇護にあったことを物語るには十分過ぎる風情を残す。
宗吾殿といえば、千葉県にある宗吾霊堂を思い出されるが、江戸期にこの地にあった堀田家屋敷の跡地であることの縁(よすが)なのだ。
宗吾殿は、江戸時代の義民で知られる下総国佐倉公津村の農民惣五郎(宗吾)を供養する堂です。惣五郎は佐倉の農民(一説に名主)で、重税に苦しむ農民のために直訴を図り処刑されたものの、当時の佐倉藩主であった歴代の堀田家は惣五郎の霊を絶えず弔い、享和五年(1803)に宮川藩堀田家の屋敷地であった当地に建てられた霊堂が現存しているといいます。
昨日もしばらく通らなかったこの道を急ぎながらも風景を期待した。
大通りを渡り一区画目の角に・・・ない。
なにやらマンション建築中の覆いで囲まれていてお堂も庫裏も何もかもなくなっていた。
我が目を疑い、「あれ?道を間違えたかな」そんな思いを持ち周りをキョロキョロと眺めなおすが、どう考えてもここだ。「文化財にしても良いようなものなのになくすわけないよなぁ~」独り言を言いながらしかたなく店に帰った。
調べてみた。
間違いなかった。
けど・・・・
ストリートビューを開けてみると、確かにあった。2017.9。去年の9月には確かにあった。が、今はない。
古い話だが、2011年10月にたまたまここの持ち主にお会いしたことがあった。門も塀も3.11の地震の影響で崩れてしまい、途方にくれていると話してくださった。修理費を捻出するのもたいへんだとつぶやいていた。
これだけのものが個人で管理していたのかと初めて知ったわけで、尚更どうしているかと心にかけることが多くなった。
過去をさかのぼってみると、2011年の日記も残していた。
江戸の名残がまたひとつ消えた。
日蓮宗素挽正梅尺三みかん玉
素挽きの玉は最近よく作る。正梅のつや有りの玉だとごくごく平凡な風景になるが、素挽きだと木目も自然な風合いが醸し出されていいなと感じる。
浅草のそら
明日は東京マラソンですね。
無患子
無患子、むくろじ、むくろじゅ、である。経典にも登場する場合は木患子と書く。
馴染みがないようでいて、実はあ~あれか!ということが多い。最近は正月に羽根突きはあまり見なくなったが、浅草の師走の行事には羽子板市がある。羽子板だけではゲームにならないだろう。羽根が必要になろう。その羽根の先についている重りがわりの黒い玉、あれがムクロジだ。
こんな数え歌をご存知だろうか。地方によって多少登場人物に変化はあるのだが・・・
いちじく にんじん さんしょに しいたけ
ごぼうに むくろじゅ ななくさ はつたけ
きゅうりに とうがん ♬
覚えているとおっしゃるお方は、人生の大先輩とお呼びしたくなるTONである。
硬い表皮をさらに剥いて中身を取り出せば、渋みの強い種子が詰まっている。渋みはサポニンのせいであり、石鹸の材料ともなる。へ~~である。TONも初めて知った。
案外身近にムクロジの木は生えている。上野のお山にも、深大寺のお寺にも結構大量に拾えるようだ。
そのせいではないだろうが、ムクロジの仏教では菩提樹のように徳の高い念珠の材料と見ている。そういうことを知っているのだろう。きっとね。
ムクロジュの実を持ち込まれお念珠に仕立てたいとされるお客様は多い。
あとは編み込んで房をつけて終了となる。
浅草のそら
昨日がにゃんにゃんにゃんで猫の日ならば、今日は「にゃーさんの日」。明日は「にゃ~よ」。明後日は「にゃ~ごの日」かい。。。。ん~面妖な。。。
本日は皇太子殿下のお誕生日であります。
金襴ミニ教本
金襴ミニ教本です。小さいながらなかなか優れものです。
暖色と寒色の二通りがあります。