浅草のそら

今日は東京オリンピック開会式。当日。

もちろん昭和39年だ。

最近は東京2020に忖度してか、1964年の年号表記が一般的になっているように見受ける。

けど僕らの時代の時は、昭和39年表記でしか誰もが口にしなかった記憶がある。

なぜだろう。。。

西暦は合理的にできてはいる。けれどただそれだけだ。日本人に漢字が受け入れられ続けているのは、直感的に漢字表記から物事の全体像がイメージとして伝わるからとなにかの本に書いてあった。元号表記も同じ原理が働くのではないだろうか。昭和という括りの激動の時代の39/64の位置に東京オリンピックが開催された。ちなみにTONは30/64ということになって、昭和の折り返しよりちょっとばかり前ということになる。まぁそれは置いておいて、時代絵巻が一瞬のうちに頭の中?心の中に心象として描きだされるし、時代の匂いまで漂ってきてしまうから不思議でならない。

漢字表記はいにしえの昔の輸入ものではあるけれど、明治時代の新進気鋭の日本人たちによる洋語の翻訳で生み出された和製漢字がごまんとあるのだ(江戸期からのもある)。

民主も主義も政治も経済も思想も自由も福祉も哲学も・・・・ごく普通に使用している漢字、漢語と思しき言葉なれど、海外から流入してきた新しい考え方を創作した言葉であったということ。漢字ではなく日字だったということには恐れを成すばかり。

日本に来ていた中国留学生たちの母国への持ち帰りも含めて和製漢語が中国に輸出され中国語になっていった。現在の中国語の70%以上が和製漢語だというのだから驚きに堪えない。

ま、それはさておき、日本人というのは、第一印象の中にイメージを作り判断する情緒的な民族なのだなとつくづく思わされる。

なのでTONの頭は和暦で考えてしまうというお話し。

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