友よ遠方より来るで、朝から何故か忙しかった。。。
自転車で府中のほうから友人が来てくれたけど台湾からのお客様が来られていて店前で立ち話。もう少し話したかったなぁ。
友よ遠方より来るで、朝から何故か忙しかった。。。
自転車で府中のほうから友人が来てくれたけど台湾からのお客様が来られていて店前で立ち話。もう少し話したかったなぁ。
最近は周りが商品で塞がれてなかなかお目にかかれないとは思うのだけど、TONの師匠が店の守りにとくださった鬼瓦。
比叡山を開かれた最澄がご生誕された生家に建つ生源寺の鬼瓦。
瓦を新たに葺き替えるときに屋根から下ろした古いものだ。屋根に乗っていた他の相棒は全滅しているから唯一残された。生源寺の輪番をされていた師匠の師匠から譲り受けたのだ。
数百年の風雨や邪気から寺を守っていたんだね。。。。今はうちの守りとして鎮座まします。
昨日お客様と立ち話をしながら、あ!そういえば以前制作していたなぁと思い出した。
というのも、アマビエの提灯が話題に上がったわけで、
鳥羽の石神社の話へと展開していった。
そういえば!ということで、改めて青メノーで仕立ててみた。
どうだろうか。。。
タンポポが咲いた~たんぽぽが咲いた~真っ黄色のたんぽぽが~~~♫
さ~びしかった雷門前の広場にたんぽぽがさぁ~いぁ~たぁ~~~♫
writing Ton
つい昨日メーカーさんから情報を頂いて即答でいただいた。
知る人は知る「アマビエ」。
弘化三年というからおおよそ180年魔の熊本の海上(というから有明海だろうか)に出没した妖怪だとか。当時の瓦版がそれを知らせる。
疫病が流行った時には私の姿を現して皆に見せるようにと言い残し海中に没したという。
弘化年間と言えば
弘化3年4月中旬(1846年5月上旬[注 2])のこと、毎夜、海中に光る物体が出没していたため、役人が赴いたところ、それが姿を現した。姿形について言葉では書き留められていないが、挿図が添えられている。
その者は、役人に対して「私は海中に住むアマビエと申す者なり」と名乗り、「当年より6ヶ年の間は諸国で豊作が続くが疫病も流行する。私の姿を描き写した絵を人々に早々に見せよ。」と予言めいたことを告げ、海の中へと帰って行った。
この時代は幕末の大変動期。政情も不安定だが、地震、富士山の噴火、大津波、疫病の大流行と天変地異も負けじ劣らずであり、庶民の安寧は守られない時代だ。
アマビエ現出の弘化三年の12年後の安政五年(1858年)には、長崎から上陸したコレラが全国に万延していくのだが、これをアマビエは予見していたのだろうか。
しかし・・・地震、雷、火事、親父(死語?)ではないが、なんと天変地異の激しいお国柄だろうかと、つくづく、つくづく、つくづく・・思わされ、その国難を先人の英知と団結力と行動力と郷土愛そして忍耐強さに驚くばかりです。その先人の血を引く現代の日本人に乗り越えられぬはずはないと確信させられる次第です。