浅草のそら

墨田公園の土手の桜は近年大胆ほどの枝払いが行われていて、空を覆うように伸ばしていた桜の枝たちはものの見事に消えてしまった。

原因はアメリカシロヒトリなどの病虫害の影響のように聞き及ぶのだが、さすがに景観の変化はどこか今の時代を見透かしているようで、少しばかり物足りない。

恥ずかしながら、桜が桜としての美を感じさせてくれるのには、花の咲き誇りかたもあるが、ピンクの花弁に目を奪われて忘れがちなそれを装う土台となる、伸びやかな枝の姿が花以上に重要なことに、ようやく気がついた。庭師の兄ちゃん達には何を当たり前なことをと笑われるのがオチだろうが、心底、桜の枝っぷりが花以上に重要だということに気がついたのだ。

桜の花は綺麗さ。

けど目を釘付けにし頭の中を空っぽにしてくれるほどの感動を与えてくれるには、木の姿、樹相が乱れていては心に響くものが半減してしまう。

繊細なほどに伸びて空を覆い隠すほどの枝の乱様のなかに清楚な色が乗っていく美しさに目を奪われるのではないか。

枝どころか幹を切り落とされても健気に生きる努力をする桜たち。

根っこのさきはたぶん写真を撮ってる地点まで伸びているのだろうなぁ。

途中龍の背のような根っこの一部を地上に表し、さらに先へ先へと大地に深行していく。

なんだか感動した。

浅草のそら

あれ!またアップし忘れてた。ボケたかな。。。

3月26日分

3月25日分

浅草のそら

昨夜はこんなに満開状態だったのに。。。

花の満開って、なんだか寂しい。

自分の人生の転換点の時、弘明寺駅裏のしだれ桜が満開だった。花吹雪がやたらと目に焼き付いている。植物にとって花を咲かすということは、相当なエネルギーを使うことだと思う。咲かせる目的もあるだろう。目的を達したのだからさっさと重い荷物は脱ぎ捨てて、緑の葉をふんだんに広げたいだろう。根に栄養を運びさらなる成長の糧を持ちたいだろう。。。

そう考えていくとなんで寂しく思うのかその感傷は勘違いだとわかる。きは大きく成長しようとしているのだか。そうなんだ。

大地に根を伸ばし、大きく成長しようとしているのだ。無言で教えてくれている。

雨に打たれてあっという間にちるぬるを。。。

浅草のそら

モクレンもそろそろお終い。本当は並木通りの名にふさわしい四季折々の植樹が欲しいところ。

あれ?昨日の画像を忘れてました。。。

11919N19に19にT19にち19にちB19にちぶ19にちぶN19にちぶん19にちぶんD19にちぶんで19にちぶんでS19にちぶんです19日分です19日分です

浅草のそら 今日は示現会だったのだ。

そう。。。!
今を去ること1392年前の弥生18日に浅草浦(今の隅田川当時は遠浅の海だった)から観音像が示現(漁労中の網にて揚がった)した。その吉日を祝う祭りが示現会。今の暦に直して5月に行う祭りが観音祭り、今の三社祭りなのだが、より核心的なご縁日が本日なのだ。
コロナの騒動がなければ堂上げ、堂下げが行われ、神社の神輿が浅草寺の本堂に一晩お泊りをする神社と寺が一つのものだった江戸期以前の文化を肌で感じれる祭りが展開していたのだったが、実に残念だ。

来年にはこんな騒動は治まってもらいたいものである。