秋のお彼岸を迎えお花を持つ人をとても目にするようになった。
今日はお彼岸の中日。
以前から是非ともお墓参りに行きたいと思っていた場所があった。
浅草という土地は不思議なところで、街のイメージは活劇、映画、大正ロマン、昭和モダンに賑わいを見せた街という印象が強く、芸能に懐の深いイメージがある。
今年30数年を数えるサンバカーニバルがあるかと思えば、お祭りサンバのように祭り一色に血が踊る伝統さも持ち合わせている。
けれど、浅草寺を抜いてこの街を語ることはできない。
ただ、このお寺の由緒を意識する方がどれほどいらっしゃるのだろうか・・・とも思う。
「日本の古都」と言うとすぐイメージされるのが、京都、奈良の平安京、平城京だと思う。
浅草のあけぼのは推古天皇三六年(628年)と伝わる。
泣くよ鶯平安京だから平安京で延暦十三年(794年)、平城京でも和銅三年(710年)。
都が始めて制定された藤原京ですら持統八年(694年)というから、それより66年も浅草のあけぼのは早いということで、大化の改新以前の事なのだから驚かされる。
史実としてはなかなかそこまでは遡れないようだが、徳川家康、いや太田道灌、いや江戸氏が屋敷を構える遥か昔から、浅草という土地は人の定住場所として栄えていたということが特筆すべきところなのだ。
前振りが長くなってしまったが、その功労者は一も二もなく、江戸浦(隅田川)から兄弟の漁師が掬い拾い上げられた観世音菩薩を私邸に祀りその人生を仏門に捧げた浅草の郷士?土師中知(はじのなかとも)の功績抜きには考えられないことである。
知ってか知らずか、三社祭りで担ぎ回られる一之宮はその人本人のことなのだが。
江戸開府に当たって家康から認められた土師氏への名跡が専堂坊という。
代々浅草寺を取り仕切ってきた。
その伝統が平成の世まで、名跡は引き継がれてきたのだから驚き以外何者でもない。
ただ、明治の悪名高い廃仏毀釈の嵐はそうした伝統にも深い傷跡を残している。
それほど大切な専堂坊の名跡は、それ相応に墓所も管理されて当然と思っていたのだが、代々の墓石を祀っていた浅草の寺は廃寺となり、流転の運命に晒されていたのである。
ぜひお参りしたいと思っていたことが昨日ようやく叶うことができた。
貴重な代々のお墓は、現在どこに祀られているかといえば、目黒の天台宗の寺院、永隆寺に預けられている。
お目当ては思った以上に広い墓所のずっと奥まった場所に祀られていた。
宝篋印塔あり、僧頭墓ありで見る人が見たら由緒をしらべたくなるだろうと思う。
三社の紋である三つ編紋が異彩を放っているのだが。
不思議に思う人はいないのだろうか・・・
ただ、これほど歴史的価値のある墓石群なのに由緒説明ひとつなかったのがTONには残念でならなかった。これって教育〇員会の仕事じゃないのかなぁ・・・
浅草寺の一角にあってふさわしいように思うのはTONだけだろうか・・・