不動明王

楠木を使用した。
淡彩色といっても技法によって、奥行きを十二分に感じる。

一番の技術は、眼入りと言うことである。
頭に割を入れて、内側から水晶球を入れる。

右から見ても左から見ても眼を合わせてくれる。
ぼくの眼を追いかける。

記憶

友人のブログを遡って読ませてもらっていると、
見覚えのある角度からの都電の写真と記事で、
ふと思い出された。

ぼくの父は明治40年に生まれた。
都の西北の学び舎で青春を謳歌した。
大隈公に心酔していた彼は、野心もあり、
同時に安定を好まず、実家の酒屋を飛び出した。

薬品の仲卸しの会社を興し、一時は隆盛を誇ったようだ。

「ようだ」としか表現できないのは、
僕が父と直接関わりあえたのは、3年間だったからだ。

事業を傾けてからの父しか知らない母の薫陶を受けて育った
僕の父親像と言うのは、頭はよいけど、
人が良くて騙され続ける、家族にはダメな男
という姿が焼きついていた。

高校時代、鉄道趣味の愛好誌のバックナンバーを買い求めに
東京の出版元を探し訪ねたことがあった。
何処にあったのか、今となっては記憶にないのだが、
雑司が谷のあたりだったように思う。

とにかく都電の見える光景だった。

横浜から高い交通費をかけてせっかく来た大都会東京の
しかも、鉄道マニアのぼくとしては、
憧れの都電を前にして、獲物に飛びつかないはずはなく、

衝動的に、早稲田方面の電車に飛び乗った。

学習院下、面影橋、早稲田とすぐに折り返し駅についてしまった。

電車を降りて見渡すとそこが父の青春時代を謳歌した所と改めて気付いた。
下町の匂いのするごちゃごちゃ感は、浜っ子の眼でも懐かしい光景に映った。

電停は、終点と言いながらその雰囲気はなかった。
都心に向けてまだ走れるかのように
10メートル近くレールも敷石もそのままだった。

路線は廃止されてはいたが、
レールの上にアスファルトを被せただけだったのだろう。
その先に目をやればレールの形どおりの舗装の盛り上がりが、
全てを物語っていた。

レールはアスファルトの中に吸い込まれやがて消えていた。

父の学生時代は、この上を東京市電に揺られて通っていたのだろうか…

不思議な感触を覚えた。

水晶お守りネックレス

水晶6mm玉で曹洞宗形式のネックレス。

最近制作依頼が多いので、
常備しようかとも思うのだけれど、
やっぱりその方だけのこだわりが出るので

つどにオーダーのほうがよさそうに思う。

プロ意識

24時間テレビを本当に久しぶりに見た。
ご多分に漏れず、
欽ちゃんのゴールに感動させられた。

だいぶ前、欽ちゃん劇場が浅草に発足した頃、
浅草お上さん会の招待で欽ちゃんがみえた。

どんな挨拶をするのか興味をもって聞いていると、
「浅草の町は優しくなくなった」
と、独特の笑顔ながらもズバリと指摘した。

六区の通りも往年の勢いを感じられず、
歴史のあるエンターテイメントに活力がそぎ落ち、
危機感から浅草のお上さんたちが立ち上がった。

そんな援軍として浅草育ちの芸人の欽ちゃんが
一家を引き連れて浅草に戻ってきたのだった。

その挨拶が、「やさしくない」
なのだった。

あまりに的確な指摘で驚いた。
優しくなったかならなかったかは、
お客様が機敏に感じられることと下駄を預けるが、
まさしく基本中の基本、原点中の原点と、
心に焼き付いている。

もう十数年前の話だ。

昨日のゴール場面を見ていて
プロ意識を見せてもらったきがする。

地蔵菩薩

創作ものの地蔵菩薩。
須加田を変えて何度やり直しだろう…

さらに顔は難しい…

今日の浅草の空

暑過ぎず…
これから急上昇するやも知れないが、
晴天の割にはすごしやすい。

読売テレビ24時間チャリティーの一環で雷門前でも
チャリティーイベントを行なって(占いみたいだ)
募金を募っていた。

何年かぶり…
いや二十何年かぶりになる。
24時間テレビに関心をもっている。

番組中、ベトちゃん、ドクちゃんのその後を放送していた。

ベトナム戦争時アメリカ軍が使用した
枯葉剤の影響で、今も苦しむ人々がいることを伝えていた。

長引く戦争の厭世観と、奇襲されるベトコンの恐怖から
業を煮やしたのだろう。
様々な化学兵器を繰り出すに及んだ。

戦争のその瞬間は、一時代のものとして、
過去のできごととして置き去りにされていく。

けれど、残された現実は、
間違いなく当事者には置き土産されているのだ。
しかも代々に渡って。

昔。といっても20年ほど前のことだろうか、
たまたまつけていたラジオからニュースが流れていた。

自動車事故だった。

ある母親が運転するワンボックスカーの事故だった。

サンルーフを開けて走っていたという。
幼稚園の送り迎えだったのだろうか。
友人も含め5人の子供が同乗していた。

こともあろうに
後部座席からシートの上に立ち、
首を出して風邪にあたっていたという。

車は、人の背丈ほどの電車のガードを通過した。
車がガード下に潜り込んだ瞬間、車内は地獄と化した。

後は語ることもはばかる光景だった。

ぼくは、当時その母親の立場を思い震撼し涙した。

「生き地獄」

ニュースとして聞く側は、無責任に終えることができる。
が、当事者は、十字架を担いだ。
まだまだそれからの人生があるのだ。

時間は流れた。
時が周りの人々から、
「記憶」を「忘却」と言う言葉に塗り替えてきた。

けれど、当事者の時は止まっているだろう。

どうしただろう…
いつも気になる。