そろそろ考えようよ。

中越沖地震の一方を受けた空からリポートをテレビで見ていた。

若いリポーターが活躍の場を得たりと、
懸命にに状況を説明していた。

地震の規模の大きさを肌で感じるリポートだった。

ある大きな建物の近くに取材ヘリは近づいた。
「神社です。神社が倒壊しています」

神社かあ…ずいぶん大きな神社だなあ
拝殿かい?珍しい形の神社だねえ・・・

あれれ、墓所があるよ…
敷地内に墓石が100基以上立っていた。

(おかしいよリポーターさん、神社じゃなさそうだよ)

「神社が大変なことになってます・・・」
テレビではまだ神社と繰返していた。

鳥居は?  

ない。
これは、お寺です。

さらに見ていると、大きな灯籠が倒れていた。
墓も軒並み倒れていた。

この地震では、犠牲者はなかったが
地震の度に倒壊した灯籠の下敷きになって犠牲者が出ている。
なのに、こうして災害現場を見ていると、
相変わらず、灯籠や墓石の倒壊がテレビの格好の対象になっている。

もうそろそろ、この構図はお終いにならないだろうか。

神社仏閣の敷地は、非常時、広域避難所になりうる区域だ。
まして、そこは聖域。

そこで、その付帯設備で人命が奪われるなんて
あまりにも悲しいことだ。

鉄筋を各部材に通す補強を行えばある程度、
崩壊は防げるはずなのに・・・

昨今、
神社仏閣の使用目的が多目的に変化してきていることを考えると
まして、都会の中の聖域は、格好の避難所として考えるべきであって、
威容さや荘厳さを誇らしげにすることのみが、
目的ではあってはならないと思うのである。

過去、まだ墓石工事を請け負っていた頃、
地震対策のためにと、ある時期から、
墓石のパーツに鉄筋を数本必ず通した。

中には、関東には珍しい、おかカロート形式のお城みたいなお墓も設計した。
全て、鉄筋量を計算して部材をつなぎ合わせた。
墓石の設計をやめて数年経ってから、比較的大きな地震があった。

心配で施主さんたちに連絡を取った。
周りの墓石はことごとく、竿石がずれたり
倒壊したにもかかわらず、
びくともしなかったそうだ。ホッとした。

天変地異があれば、
人情として、人は不動のものに身を添いたくなるのだ。
せめてその期待は裏切らないで欲しい。

マスコミのカメラの走るところが、
決まって神社仏閣の大灯籠などだ。
僕がカメラマンなら、
きっと地震規模の大きさを示せる格好の素材対象として、
神社仏閣を頭に描くだろう。もちろんいい写真を撮りたいがためである。

そんな期待を見事に覆してくれる、
災害に備えた聖域になって欲しいと思うのは、
僕ばかりではないだろう。

猫のおなか・・・?

当店はレジの周りには、格子枡を設けて
香炉が人目に楽しめるよう配置にしている。

お客さまのみならず、販売側もレジに立ちながら、
あーだ。こーだ。と、香炉の柄を気にしながら見ることができる。

で、レジ前で作業をしていると…

気になる香炉が目に飛び込んできた。

あれ?

こんな柄あったっけ?
それもそのはず、どう見ても
トラ猫のお腹そのものじゃないか。

この太り気味は、ドラえもんのそれにそっくりだし。

?????
ありえない。
入れた覚えないもの。

表に回って確かめてみた。
なんのことはない、九谷焼の赤富士の香炉じゃないの。

物事は、裏表確かめないといけないよと
諮詢してくれているようだった。

梅雨空は明けません。

台風が過ぎ去って青空が見えたのは
ほんの僅かでした。

また、もとの梅雨空。

今年のお盆は、なんだろう…
災難がすべて揃った。

台風と地震
雷も火事もあったから、あとはオヤジだけか…
あ!自分がおやじだったっけ。

そんな中でも、雷門前は賑やか賑やか。
外人の団体さんも溢れていて、
さかんにシャッターを切っていました。

そんな中に混じって写す自分は何人?

身につまされる・・・

過去にお寺の要請で製作した。
お年寄りのボケ封じ観音。

ボケの言葉は使わなくなったから、
「認知症除け観音」とでも呼ぶのかな。

ボケ、認知症、物忘れ…
30代までは、全く考えもしなかったことだった。

「ぼけ封じ」と聞いても正直ピンとこなかった。
言われたから作った。が本音かな。
感想も何もなかったような気がする。

老夫婦が観音様に慕う姿…
ぼくの感受性ではそれが限界だった。

けれど、ぼくも人並みに50を越えた。

10歩歩けば、何しに来たんだっけ?
「あの時、あのことで、あれしてさ、どうなったっけ?」
その会話がどうなったんだっけ?

だいじょうぶボク?

となってきて今、改めてこの像に再び向き合ってみた。

しげしげ見てみていると、何ともいえない安堵感が沸いてくるのだ。

何!この感触。

すがる気持ちが素直に、

わっかるなあ…

いつまでも、頭脳明晰である必要はないけれど、
「せめて世話にならないで生活できるレベルは維持していたい」
親の口癖が、自分の口から漏れる。

歳を重ねれば、きっと誰もがそう欲するのだろう。

何百年も昔から、
きっと同じこと思っていたんだろうなあ…

やけに、胸に沁みるぜ…

そして、その朝

台風一過の朝は、気持ちいいーーー!

からっと快晴、日本晴れではなかったけれど、
まだ、梅雨の時期だ。
この「からっ」は、台風一過のおかげといえる。

雲の表情が刻々と変わる。

見ているだけで楽しい。

台風一過

台風一過というと、スカットした青空に涼風

稲穂のたわわに実る風景

秋の印象が僕の中では強いのだが…

あれだけ騒いでいた台風も関東近くから、
やや南に方向を変えてくれたから、

関東地方での被害は、少なく済んだようだ。

江戸を開墾した古人に、こういうときいつも感服する。

台風を避けていた観光客が雷門前に、どっとあふれていた。
気持ちはよくわかる。

こんなのも範疇です

唐獅子牡丹(からじしぼたん)も
うちの職人が作ると、こうなります。

彫りの深さといい、
バランスのよさといい、
表現力は、逸品。とぼくは思っている。

でも…頼まないのに、彫っちゃわないでね…

60点

「いやだな」と思うと、
何故か「いやだな」に近づいてしまう。

良いほうに予測すればよいのだが、
だから極力、マイナス志向が頭をもたげてきたら
数秒で切り替えることにしている。

学生時代、弓道部に所属してさんざん弓を打ってきた。
いざ試合になると決まって前日に夢を見る。

矢を弦にかけ弓を打ち起し、的につける。
静寂な時間(会(かい)という)。

当て気を起こさず、
体は静止するが精神的に充実をみて、
気が充分に溜まりきった時点気が発すると同時に
矢も自然に発せられ(離れ)的に的中する。
と、なるのだ。

が、

ポロリ

矢が弦から外れて床に落ちる。
慌てて二矢目を弦にかけ同じ動作を繰返す。

ポロリ

何度やっても落とすのだ。

めちゃくちゃ慌てる。
「こんなことあろうはずはない。絶対無い!」

これは夢に違いないと強制的に目を覚ますのだ。

実際、試合中に弦から矢が外れたことなど一度もないのだ。
あろうはずがないことなのに、
夢では、あっちゃう。

完璧を望むから、余計なストレスを感じるのだろう。

心理学を専攻する諸氏には、格好の材料なのかもしれないが
本人は、割と深刻に受け止めている。

故に、あろうはずもないものを考え始めたら、
80点、いや60点でよい。
100点とろうなどおこがましいと思うようにした。

すると、おかしな気持ちは雲散霧消して
晴れ晴れと平常心で試合に望めた。

今まで、この60点思考がどれほど役に立ったろうか。