改めて見ると手の込んだこと。。。

臨済宗の装束である。

臨済宗の装束ならば通常は朱赤を使うところだが、住職のご要望で、お持ちの衣の色に合わせるということで同色とし、しかも細い絹糸(上本糸)を利用してしなやかさを見せたいとのこと。
撚りのかかった霧房用の太い糸を通常は使うのだが・・・そのほうが楽だし少ない糸でボリュウム感も出るのだが・・・・

どの程度の本数を使うのかは、握った感触で決めてしまうのだが、せっかくだから本数を数えてみることにした。

「ちゅーちゅーたこかいな。ちゅーちゅー・・・」とは数えない。

123456789・・・・・・・と数える。

途中紛らわしいことになってしまうから、結局このほうが速い。

以外に多い。800本を過ぎてもまだ半分に行っていない感じ。

1000本・・・・1300本・・・・1500本・・・・超えちゃった。

1677本。奇数になることはないから、数え間違えているのは確か。

ふ~ん。6寸の房長さにしているから18cm×1677本=30186cm≒302m
302m×4房=1208m
1.2kmの長さの絹糸を使用していたということ。。。

まだ軸糸を編み込んだ長さは加えていない。
なかなかでしょ。念珠って。。。。

浅草のそら 今日は昔の観音祭り

夕べは浅草神社の三基の神輿が浅草寺の本堂内にあげられてお泊りされました。
堂上げと呼びます。

神社のお神輿が仏教のお寺に?と不思議に思う方もいらっしゃるかもしれませんね。

けれど、これが日本の仏教なのです。

江戸期までの日本の宗教は、神様と仏様が仲良く手をつないでいたのです。

とくに浅草神社のご祭神のお三方は実在の人物。浅草の郷士と言われる土師中知(はじのなかとも)、観音像を隅田川(当時は海)から掬い上げた桧前浜成、桧前竹成の漁師の兄弟です。

そのご祭神のご子孫が観音堂をずっと守られてきたのがおもしろい所です。

江戸期にはいると、徳川家康からその身分を保証され、専堂坊、斎藤坊、常音坊という名称を頂き、半僧反俗、妻帯という特権を持って代々受け継がれていくのです。

ですので、お坊さんだけで運営されている今の浅草寺とはちょっと色合いが異なりました。

ま、横道に少しそれてしまいましたが、観音様が示現したその日を祝ったその日が3月18日ということで、明治維新までは「観音祭り」として寺も神社もない渾然一体化したお祭りだったのです。
山鉾のような煌びやかな山車を各町で持ち、浅草御門(今の浅草橋)まで引き回し三基の神輿は舟で駒形もしくは山の宿まで運ばれその岸から上陸しました。

今の浅草の範疇を超えて盛大に行われていたのでした。

今の三社祭りとはだいぶ様相も違っていたようですね。

なかなか面白いな・・・


お預かりしたチベットの念珠。

日本の形にということで、はたと考えたのが弟子玉に使う玉が足りない。

真言にするには20玉必要だし・・・

ということで、華厳宗の古い形の念珠。

もともと付いていた6玉を表房側に寄せて反対側には編込みを長くして房をつけよう。

ということでこうなりました。

山サンゴの赤も結構おもしろい表情していたのですけどね。

清月菩提樹の玉を出して色をじっくり合わせ入れ込みました。

なかなか面白いな・・・・

今は難しいんだ・・・・

過去随分多くの羅漢彫りを施した念珠を製作販売してきた。

何種類に及ぶんだろう。素材も、彫りの練度も、精巧さもことごとく異なる玉を好き好んで入荷しては制作し続けてきた。

羅漢彫りではないけれど、骸骨の彫り物は京都に職人がいたが、ついに作れなくなった。

その替わりに一見すれば、そうとわかる海外の骸骨彫りの粗悪品が我が物顔でまかり通っている。

羅漢彫りに関しては、昔から中国のものが主流だったが人件費の高騰や諸々の事情で入手が難しくなりつつある。

精巧な彫りのものから消えていくのはちょっと寂しい気がする。

たまに持ち込まれた当店の羅漢彫り。

残念ながらもう入らない。
でも割っちゃったという。

どうしよう・・・・

しかたない、腕輪に使用していた主玉から抜いてお直しさせてもらった。

でもこれからはどうしようかなぁ。。。。