ちょっと早いような・・・

もう咲き出しました。

梅雨も始まっていないというのに、
もう、アジサイ?

さすが花火大会のメッカらしく
アジサイにも一工夫あり。

紫陽花の花は、好きな花のひとつ。
特に額紫陽花は、清楚で大好きなのです。

墨田の花火

額紫陽花(萼部分)が八重に咲くスターマインを思い出します。

どことなく楚々としていていながら、八重。
いいなあ…。

http://www.diana.dti.ne.jp/~kh-hashi/sub01-03azisai.html

もらいものの大麦小麦。
乾いてくるとどんどんいい香りがしてきます。

甘くて干草の香り…
あ!干草でした。

葉っぱがしょげてきました。
ピンとなってもらいましょうか。

ちょっと浅草

最近、浅草は、人が多くなって
ひところの「斜陽」と言う単語が、どこ吹く風状態になりました。
通りも整備されてきて、歩くとおもしろいよ。

何となく浅草って感じでしょ。

浅草演芸場前 喜久蔵の襲名披露?記念をやっていた。

西参道商店街(ちょっと朝が早かった)

僕の好きな通りなのだ。遠くに五重塔が見えます。
なぜこちら側からの参道をてこ入れしないかなあと不思議。
まあ、今のままが好きだけれどね。

どこだかは、歩いて探してね。
ヒントは、古物商が集まってます。
テコンドーの道場があります(これは言い過ぎた)。

蓮ちゃんその後の後の後

芽ーーー!

去年は死滅したと思っていた睡蓮に
芽?が、モコッと立ち上がりました。

浮き草は、
半分に減らしたのにこれこの通り。

また全面に増えて、
メダカたちのプライバシーは守られています。

でもなんで、これほど増えるんかなあ。

ついでに、めだかちゃんたちも
これ、このとおり・・・

デッケー!
くなり、ますます盛んです。

まだ、猫にも食べられず(浮き草のおかげでしょう)
店頭で、子供たちの相手をしてくれています。

大麦小麦

お得意さんのYさんが福島のお母さんと訪ねてくださった。

「はいお土産」

と、なにやら大きな包みをいただいた。
花束?にしては青々しているし、
だいいちBooに花束は似あわなイッショ。

はみ出ている葉っぱは、韮(にら)のようだし・・・
Booの韮炒め…?

開けて驚き「大麦小麦」
庭で採れたものだからということで
福島からわざわざ持ってきてくださったのだ。

「どうやって食べるのですか」と聞くと、
観賞用で実のつく前に刈り取ったの、とのこと。

ということで・・・

こうなりました。

Yさんに浅草名物をと思って、猫好き母娘とリサーチ済みゆえ
最近見つけた、浅草には珍しい美味しいたい焼きを買いに、
浅草寺裏に足を伸ばすが「開店準備」と言うことで空振り。

なにか良策はないものかと頭をひねって出た答えが、
猫=ドラえもん=ドラ焼き 名案である。

ドラえもんの好物にしようと駒形に走ることにした。。

ここ小川堂は、元はうなぎ屋ゆえ、
未だに、知らぬ人はうなぎ屋と間違えるらしい。
看板にうなぎの絵も出ているしね。

職人らしく、とっても飾り気のない
気さくなご主人なのと、
餡がとにかくうまい。

近くの隠れた名店と信じている。
世間話をしながら店内を見渡すと、

つい先日、皇室日記のテレビでみたばかりの
「桧の兜」が置いてあるではないか。
秋篠宮家に納められた兜と同じものだ。
それ相応にスケールダウンしてはいるようだ。

宮中に献納された兜の職人が友人で、
作ってくれたのだとか。

芯のある職人同士で、気が合うのだろうと、
勝手に思いながら写真を撮らせてもらった。

僕もこの小川堂のじいちゃんと気が合うということは、
僕も頑固オヤジということか!

この方、「最近はいい商人がいなくなった」
と口癖なのである。

オーマイゴット

また、闘争の季節となった。

あっち~~!
なんなんだ、この暑さは!

当店は、路面店です。
お客様の入店のしやすさを考えて入り口は、
閉めません。

ようするに年中あけっぱなしです。

雪の吹きすさぶ厳冬であろうが、
真夏のギラギラ太陽のなかであろうと・・・

当然、外気が構わず侵入してまいります。

エアコンをつけ温度調整します。

いちおう「チーム-6%」だから、
気を使うことは使います。

けれど、気を使わなくても、店員が勝手に上げます。

ぼく下げます。

店員上げます。

ぼく下げます。

上げる、下げる、・・・・

もう・・・戦いなのであります。

-6%は完璧にクリアーです。

いつもの年は、盆提灯が店頭を飾る頃からだから、
6月頃からのはずなのだけれど・・・

今年はすでに、闘争モードに突入いたしました。

地球温暖化の影響は、こんなささやかに暮す、
TONちゃんの上にまで容赦なく押しよせております。

明日は、いよいよ夏日。とか。

オーマイゴット!

明日に生きる

最近、人を送る機会が多い。

直接の知人ではないのだが、
友人の父親であったり、
夫、妻であったり、友人であったり、
である。

自分の年齢を考えたら、
そう…そんな年頃なのかもしれない。
自分を知る人が…
理解者が…
受け止めてくれていた人が…
世を去るというのは、すこぶる寂しく、かつ手痛いことである。
人間は情の生き物であることを改めて教えられる。

パンのみに生きるに非ずなのである。
情のネットの中で生きる力を与えられていることを
気付かされるのだ。

「80歳を越えたら、同窓会も開けなくなったよ」
「悪仲間がみんな逝っちゃっておもしろくない」

などと、年寄りに、昔からよく聞かされたものだ。
「ん~~そんなものかねえ」
などと生返事をしたものだ。

20、30代の頃は考えたこともなかったけれど
同世代がどんどん減っていく。

少し深く考えてみると、これは、由々しき問題なのだ。

なぜなら、同世代にしかわからない共通項が必ずあるからである。
つまり、ツーといえばカーが通用しなくなるということ、

常識が常識として通らなくなってくるということを意味している。

ネットの仲間で、同世代の集まりがある。
たいしたことを話すわけではない。

子供のときの番組覚えてますか?だの、
何して遊びましたか?だの、
駄菓子屋の思いでは?だの、

ようするに、思い出話だ。
少し前なら、考えもしなかっただろう。
そんな中で発言していると、心模様の変化に気付く。

自分の立ち位置を確認しているのだ。

自分が生きてきた足跡を、
同世代の中から自覚しようとしている…

そんなような気がするのだ。

だから、ネットを飛び出して、オフ会も盛んなのだそうだ。
ハリマオーについて語るだの…ね。

否、
くだらないと思うなかれ!

若いときには、「明日どうなるだろう」しか考えないで
突き進んでこれるものなのである。

50、60になると、これまでの積み重ねを確認しながら
次に進む、そんな考えが出てくるのである。

己の中で、温故知新を求めようとしている。

あの時自分はこう見つめてきたけれど、
同世代のあなたはどう捉えたのと、
ある意味、比較する意味はないのだけれど、
それが、どこか安心感を生むのだろうか。

とにかく、方法論はなんでも良い。
明日に生きるのは、自分なのだ。

だれでもない。
私なのだ。

新企画の腕輪

龍彫りした柘(つげ)腕輪。

12支の干支を彫っている。
コミカルな動物の姿。

中国で彫りこんでいるので、亥は、豚に見える。

またこれもかわいい。

久しぶりに

久しぶりに空を見上げた。

どことなく曇り。

東京マラソンのために装った、にわかじたての雷門前の
花壇がようやく落ち着いた。
できれば、日頃からこうしてほしいけどね。