正月の光景

空気は乾燥して錆を出す要因が少ない。
人は多く、日頃でさえなでてくれる人の多い小僧君。

正月の参拝者にそれこそ何千人となでてもらうものだから
手の指紋がヤスリとなってこれこの通り。
見事である。
「ぼくとどっちがかわいい?」と飛び込んできた小さなお客さんと。

亀十のどら焼きはこれこのとおり30mの行列を作る。

もう春の息吹?

正月準備のために浅草橋に買い物に出かけた。
良く顔を出すデスプレイ関連の店も、
クリスマスから正月用品への衣替えに忙しく働いていた。

年が改まろうとする以外、
なにがどう変わるわけでもないのに、どことなく忙しない。
僕も何軒も見て廻らなければいけないから、そこそこ忙しいのだけれど

きゅうきゅうすればするほど、瞬間、目に入る風景が強く印象に残る。

まだ、寒さもこれからと言うのに、

梅の枝には若芽がしっかり形作られていた。

椿

椿を目にする季節。

椿と言うと、雪の中に可憐な赤を演出するイメージ。

寒風の中、大島を旅したときの記憶と、
そして、店を共にに支えてくれた椿好きの一人を思い出す。

どうしているだろうか・・・

時の流れの速さに驚嘆する。

羽子板市準備

毎土曜日恒例の買い出しの帰り道、
本堂を通り雷門に抜けようとすると何やら境内が騒がしい。

宝蔵門の前でトンテンカン、トンテンカンと作業している群れがいる。

映画のセットでもこしらえているんか???
と、しばらく見ていると、そうでもなさそう。

小ぶりの茶店のような、いつも見受ける出店ほど華奢でもなく、
若干重層な造り。奥山の江戸風出店かと思った。

黒いひな壇には何が乗るんだろう…
とそこまで想像していると、

 羽子板

あ!そうか。もう羽子板市じゃないの。
何度も口にしながら現実目前に迫った「羽子板市」は
すっかり頭から離れていた。

師走はいつもこんな感じになる。

気付くと、もう2月。
なんていうことも毎年の事である。

いよいよ

浅草寺への参道というと、雷門から仲見世を通り本堂に至る
南からの通りが現在は、唯一の通りとなってしまった。
路面電車が走っていた頃は、江戸通りつまり墨田川側から、二天門を通り
本堂に至る通りも参道として機能していた。

その名残を、止める。

昭和33年再建とあるから、当時までは、こちらからの通りも
ある程度重要視されていたことを想像できる。

よく監察すると、てっぺんにはすずらん灯を乗せて
時代を感じさせはするが、手の込んだつくりをしている。

いつか取り壊されるかもと思っていたが
再建される張り紙がしてあった。

新東京タワー建設とあわせて
いよいよウォーターフロントの見直しだろうか。

二天門も急ピッチで化粧直しを行っている。

もともと浅草は、水辺から発達した土地柄。

川とのかかわりを抜きに考えることは出来ない。
ようやく見直しの時期を迎えたようだ。

師走風情

浅草寺北側に位置するひさご通り商店街。

だいぶ整備されてきれいになったけれど、
下町の商店街の風情は残る。そこがいい。

浅草寺境内の銀杏はすっかり色づき、
黄金のじゅうたんを敷き詰め始めている。

寺男のおじさんたちは、あっというまに片付けてしまうけれど
少しの期間味気ないアスファルトよりも、
落ち葉のやわらかさがいいのに・・・

夕はここがいい。

そぞろ歩きにちょうどよい。

成道会

お釈迦様が菩提樹下にて悟りを得た日である。

ちなみに「じょうどうえ」とキーボードに打ち込んで変換をかけてみると、
「浄土上」となる。

浄土の上???となると…これはどんな世界なのだろうと想像してしまった。
外国人の作った漢字変換機能のお粗末さはまあ許されるとしても、
仏教国でありながら、成道会とはの質問に何人の人が答えられるだろうか。

かく言う自分も、この仕事に就かなければ、
「何それ?知らん」と一生を通した一人に違いなかったと思う。

人の苦しみの元凶。

つまり「生老病死」(しょうろうびょうし)の四苦から
どうすれば離れることが出来るのか。

壮大な、しかし人間根本の問題に文字通り命がけで取り組まれ、
ようやくにして約2500年前の今日に悟りを得た。
(人々に流布しようと決意するまでには梵天勧請を待たねばならないのだけれど)

その日が12月8日なのである。
この日が来なければ、世界の5億とも言われる仏教徒はもちろんのこと、
アンコールワットも敦煌も日本の文化の基礎もなかったわけである。

日本には2億人近い仏教徒がいると言われる熱心?なお国柄なれど、
この日は、以外におとなしい。

12月8日というと、真珠湾攻撃の日と重なってしまうのだけれど、
(最近真珠湾攻撃すら知らない若者が多いのには閉口した)

大乗仏教の開花した国、日本なのだから、
「成道会」はしっかり知って欲しい日である。

浅草はもう正月

月初めは相変わらずながら、
浅草寺の掃除から。

もう何年通っているか忘れたけれど
商店会のお世話役の麦とろさんとも十数年のお付き合いになる。
地元の倫理法人会の方も多くてさながら朝起き会のような風情になってきた。
でも、これがないと一ヶ月が始まらない。

相変わらず小走りに浅草寺に向かう。
仲見世は飾り付けの真っ最中。

二天門は工事中。
囲む銀杏は、いい色になっている。
紅葉は少し遅いようだ。

想い出の浅草

「50年ぶりに浅草に来ました」
レジで精算していた老夫婦が店の女の子と親しげに話していた。

「あなたが二回生まれ変わるくらい前の話だよ」
25歳と思ってくれたみたい。得したね(^^

「どうでしたか浅草は?」、との質問に、

「すっかり変わりましたね~~~」

「特に瓢箪池のあたりが全く面影が残っていなかった」

と、いかにも残念そうに聞こえた。
昔の自分たちの足跡を見つけ出せなかったのだろう。

70歳を少し越えたご夫婦は、
若い時代の1ページを「浅草」というキーワードでお互いをリンクしているのだ。

ここ浅草を訪ねてくださるときには、
街を見、店を見、通りの木々を目にしていても、
きっと今のそれを見ているのではないのだ。

50年前の自分たちをそこに映し、再現しながら、
トレースしているのだろう・・・
きっと…

老夫婦が発した「すっかり」と言う言葉には、
どんな感慨が込められていたのだろう。

瓢箪池は、六区の今の馬券売り場から浅草寺にかけて存在した。
戦争で焼け落ちた本堂の再建のために売り渡されたと
話を聞いたことがあるがまんざら眉唾でもないのかもしれない。

古い地図を見ると、浅草寺の一体不可分の領域と思えてならないが
ここ浅草の住民の、そして観光客にも憩いの場となったのであろうことは
想像に難くない。
http://www.edo.net/edo/asakusa/s31web/map/m1.html

池を知る人は、「あの瓢箪池を埋め立てたのが浅草衰退の原因だ」と
語る方は少なくない。
それほどの、「ほっと空間」だったのだろう。

雷門から仲見世を通り浅草寺の往復で終わってしまう今の浅草の姿は、
やはりここ最近の異様な姿なのかもしれない。

浅草が憩える空間となっていた当時が偲ばれる。

偶然見つけたこのサイトには、数少ない瓢箪池の写真も含まれている。
昭和三十一年浅草
洒落て装った町ではない。
下町のどこにでもあった等身大の姿。

そんな息遣い、町の匂いが漂ってくる。