彼岸の雨

今日も雨。

彼岸の最中に風と雨でこんなに荒れたことは
過去あまり記憶にない。

調べてみた。
過去10年内に2回。

彼岸の雨

お彼岸だと言うのに雨。
ますます行かなくなりそう・・・

お墓参り。

行けないなあ。雨だからじゃない。
宮城県だもん。
やっぱりお墓は近いほうがいいなあ。

言問橋

眠い目をこすりながら、二晩見てしまった。
「東京大空襲」

今年は二局で週こそずれていたけれど、
より核心に近づいた内容だったように感じた。

時代を繋ぐ

子供のころ読んだ漫画の一こまが何故か心に焼き付いて
いまだに時々顔を出す。

たしか、藤子不二夫のおばけのQ太郎だったと思う。

「戦争が終わって20年だね」

と、Q太郎と正ちゃんが会話をする。
たったそれだけなのだ。
その後も前もストーリーは全く思い出せない。

けれど、戦争という言葉に、強烈な印象を持った。
「そうか20年たったんだ」と子供心に深い感慨とも、
なんともいえない思いにとらわれたのである。

僕は戦後は終わったと宣言された年に生まれのれっきとした戦後派だ、
戦争を知るわけではない。
20年と言うことは昭和40年時点ということで僕は10歳。
小学3年か4年の小僧になぜそんな印象を与えたんだろうと時々思い出す。

ただ一つ考えられるのは、僕の世代は、戦争体験を持つ親の
最後の世代と言うことだ。

また、身の周りにはいくらでも環境はあった。
焼けただれたビル。米軍のかまぼこ兵舎。闇市のようなドヤガイ。
傷痍軍人とおぼしき物乞い。
母親にお金入れてくるとせがむと、
初めのうちは快く出してくれてはいても
度重なると偽者だからやめなと言われ不思議に思った。

高校時代まで、朽ち果てた格納庫が海岸線に残っていた。

グラマンの機銃掃射を受けた話、軍需工場が空襲を受けて逃げ回った話、
話の中にも現実社会の中にも空想にも実態にも教育される現場が合った。
手の届く範囲に戦争があったのだ。

朝鮮動乱があり、ベトナム戦争があり、
子供心にも忘れさせてくれない環境があった。
そんな思いが靖国神社に通うきっかけともなるのだが。

どう次の時代に受け継いでいくのか、
「正しく」繋いでいくことが、僕らの責任なのだ。

遅々として進まない

古い愛車をレストアしている。

去年からそれなりに乗れる状態にはなっているのだが、中途半端なのだ。

まずタイヤが違う。
本来レーサーだからチューブラタイヤを履かせるところなのに、
重いWOのタイヤをはいている。
回転部分は軽くなければならないのだ。

チェーンリング(前のギヤのこと)が違う。
この自転車を昔、一時的に人に譲ったときトラック競技用のシングルに
付け直したのだ。すっかり忘れていた。

だからシャフトも短い。

それを忘れていて、アウターのギヤも留めピンも合わせて入手し
ダブルに戻そうとしたら、ギヤがフレームに当たってしまって使えない。

じゃあシャフトを長い物に変えないとと思ったら、
今は絶版になってしまって通常では手に入らない。
ガク。時代の移ろいを実感。

で、オークションの手助けを借りることにした。
が、これが問題なのだ。

実に実に締め切られる時間が、ほぼ夜中ときている。

僕は起きていない時間なのだ。
正しく言えば、
起きていないじゃなくて、起きれないのだ。
今朝になって昨夜狙っていた二件をやりすごしてしまった。
ブヒーン
出物だったのに・・・。

ということで、シャフト待ちでぐずぐずしているのだ。
このままじゃ夏になっちゃうよ・・・

秩父のお開帳は逃げないと言うものの
歩きやすい季節がある。
お開帳で人の多くなる前、2月に廻ろうと思っていたのに・・・
思わぬ布石を喰らっている。

風情

環境アセスメントに関する説明会は去年のうちに終了し

いよいよ最終調整の説明会かな。
新東京タワーも見えてきました。

基礎の試掘の進めているし、
真綿で首を・・・ ではない・・・、
いよいよ槌音が聞こえるようになってくるのかな。

東京は再開発でめぼしい町はどんどん生まれ変わっている。
初めて東京に来たときは、江東、墨田、台東、葛飾・・・
下町情緒でもそれぞれ微妙に違っていた。
風情と呼ばれる得もいえぬもの。
都電もなくなり、再開発されて金太郎飴みたい。
どことなく白々して見えた。

なくなってしまえば、何の不思議もなく
「昔あったねそんな」のくらいに「風情」って失いやすいもの。

押上、京島、業平の町々もどこにもあるような、
きれいな、画一化されたデザイナーズ街路に変貌してしまうのだろうか。
下町の路地。くもの巣を張り巡らしたようなごちゃごちゃ感は、
どんどん整理されていくんだろうなあ。

付加価値のつく土地を大手が見逃すわけはないもの。
下町気質まで無くならなければよいが。

わがまま

種字(梵字)曼荼羅が手に入った。
ようやくと言って良いのか、気に入ったものがなかなか見つからなかった。
前に作って欲しいと依頼したものは、
紺地にむらが出ていた。
「印刷だからしかたない」の一点張りで前に進まない。
じゃあ紺紙に金泥で書いてくれと、全くの予算オ-バーになってしまうが
うちを信頼してくれて依頼してくださったお客様を裏切るわけにいかない。
依頼額の数倍になってしまうほどの赤字を覚悟でお願いするが、
書家の梵字見本を待てど暮らせど送ってこない。
堪らず電話をしてみると、「出せません」
「そんなに細かいこといわれるのでは、当方では困難です」
辞退されてしまった。
一度引き受けていながら…僕が連絡とらなかったらうやむやにしたかったのだろうか。
かんぐってしまった。

で、暗礁に乗り上げてしまったのだ。
懇意にしている梵字の大家にお願いすれば話は早いが、折り合わないだろうし、時間もかかるだろう。

実はこんな経験は、しょっちゅうなのだ。
まず自分が気に入らないとだめなのだ。
これはどうしようもない。だから製作側が職人意識が高い人としか長続きしない。
採算だけで仕事をするところ、聞く耳を持たない職人、
呼吸があう、合わないとはよく言ったものだ。
そう考えてみると、僕の周りには、よい縁で結ばれているものだと感心させられるのだ。
だって、視点を変えて客観的に自分のしていることを見たらわがままだもの。
それに付き合わされる職人は堪ったものじゃあないだろう。
それは、わかるのだ。

だけれど、納得いかないものを、施主さんに手渡すわけにいかないじゃん。
後々まで後悔してしまう。

だからまた、わがままを通すことになるだろう。
付き合ってね職人さん。

表装まで全てかけさせ

逆輸入

国内の無理解に嫌気をさして海外に活路を求める芸術家。
そして技術者たち。
昔から後を絶たない。

出る釘は打たれる。
一定以上の特出したことは望まない風土。
処世術として友好に働く場合もないとはいえないのも確か。
ただし一度公で認められてしまうと、空気はがらっと変わる。
鬼畜米英が闇雲に親米へ
安保闘争に眉をひそめていた大人たちは何処へ?
性の解放はどこまで若年化するの?
価値観はひっくり返ってきた。

だいぶ前、小学校に通うわが子の教科書を見て腰を抜かした。
書道は書写といい、自然と情緒を育ませてくれる唱歌の激減していて、
若かりし頃、好きだった反体制ソングやら
ニューミュージックが課題曲として顔を見せていた。

形ばかりの歴史の羅列・・・

いったいこの教科書は何人(なにじん)を育てようとしているのだろう。

欧米か?

むしろ欧米人が日本の文化に惹かれて、
バックパッカーよろしく世界から訪ねてきている時代。

日本人は何を伝えられると言うのだろうか。

戦前の日本人の貧しいけれど心の豊かさに胸を打った外国人は多いという。

ご先祖が培ってきた日本人の心象を今の教育で、
どう受け継いでいけるのだろうか。

唱歌が小学校の音楽の教科書から激減し
日本の美しさ、日本の歴史の誇りを日本人が見失っている。

海外でさかんに取り入れられていく日本文化。
気付かんかなあ教育委員会。

SCORPIONSのこの一曲。

アルバイト

ぼくが始めてアルバイトに手をだしたのが小6の夏休み。
新聞配達だった。
いざ給料日になると当初の約束と異なり、
働き口を紹介してくれた配達員に賃金を中抜きされ、
「田舎に帰りたいからちょっと待って」なんて
今考えると信じられない理由で給料の遅配までされた。

金で人は豹変するものだと骨身に沁みた。

次が、中3の夏休み。
1969年7月20日に面接を受けに行った。
何故詳しく覚ええているかと言うと、アポロ11号の月面着陸の日だったからだ。
面接を受けた社長室のテレビに映る月面の映像が気になって
何を答えたか全く覚えていない。

大阪万博の記念メダルセットが欲しくて働いた。
一ヶ月、蒸し暑いはかり工場で錆落としをしていた。
真夏の工場のつらさをとことん身に沁みるが、工場内の技術者にはすこぶる可愛がられ、一杯飲み屋にしょっちゅう誘われる。

その次が高校1年の春から、毎日曜日建設現場でサッシ清掃をした。
北海道一人旅の軍資金のために働いた。
奄美大島出身の社長にすこぶる可愛がられたが、ぼくの神をも恐れぬ失態で、責任辞任し、苦い思い出となった。

思い出してみると、親に反対され隠れてバイトをし、悲しい結果に終わったこともあったが、今にして思うとそれなりに有益だったように思う。

昨日、長男が初めてアルバイトに出かけた。
プッシュしないと何のアクションも起こさないポーちゃんなので、いつも母親の雷を一身に受けている。

それが、高校の卒業旅行の軍資金ためようやく重い腰を上げた。

初日、帰ってきて「どうだった?」と聞くと
「戦力になるって言われたよ」
軽作業と聞いていたが、靴の入ったダンボールを持ち運ぶ作業のようで、結構重労働のようだ。
剥けそうになっている手を見せながらも、にこにこ顔。
どうやら何とかなりそうかな。

夕食の手伝いをさせようとすると、
「筋肉痛だあ」
早速動かない。

「それはそれ、これはこれだろう」とぼく。

まあしばらくは、我慢するとしよう。

三人乗り

書こう書こうと思っている間にもう古い話題になっているみたい。
情報の速さに唖然とするばかり。

自転車の三人乗り。
意見が二分されるのは当然として、
実際、子供が複数いる家庭は大変なんよ。

歩いていける範囲(何キロでも歩けと言えば歩けはしますが)に
保育施設がある地域はいいでしょう。
徒歩で充分と言う場合も確かにあろうとは思う。

けれど、2人3人の幼児が年子であったなんていう場合
どうしたらよいの?しかも子育てと仕事は毎日のことである。

子供が産まれて近くの保育施設を希望してもすぐに入所できるとは限らない。
僕のつたない経験では、長男が1.5k先の市の施設、次男三男が近くの施設。
と別れて1年間預かってもらった。

健康なときは上さんと二手に分かれて預けに行けば済むことだが、
人間調子のよいときばかりではないのだ。
一人が欠ければ背中に一人、前カゴに一人、後ろに一人と四人だってこなざざるを得ない事だってある。

責任論がどうのという議論もあるけど、現実無理です。

ただ、歩道を重戦車のごとく快走することは控えなければならないのは
3人乗りに限ったことではないが。
自転車の歩道走行はそもそも、緊急避難措置なのだから

毎年5~600人の子供の自転車事故があると聞く。
そして警察は3人乗りに関して黙認であったともいう。
保育施設の拡充を叫ばれても、遅々として進まない現実。

女性の社会進出は見切り発車なのだ。

それにストップをかけようとするんだもの。無理ですって。

そして、自転車メーカーの怠慢さ。
「売れないから」が一番のネックで新車開発をしてこなかったと見る。
販売効率の壁。

時期尚早というのならいざと言う時のために研究、
試作してこられてもよかったのではないのかな。

海外にはこんなのもあるのに。
http://myzigo.com/index.html

今がチャンスなのだが・・・

条件付許可ってなんだろう・・・
また曖昧に終わりそうな気配だなあ。