にゃんこ来る

東京藝大の芸術家の卵たちによる作品が今朝、浅草神社に搬入された。

「五右衛門」と命名されたビックキャットは、丸の内賞を受賞するほどの力作。

150匹以上の等身大の猫が寄り集まって・・・・言葉を変えれば、こころをあわせることで大猫となったのだ。

数十名の学生たち一人ひとりが、愛猫を思い、亡き飼い猫を思い、想い出の一こまを思いながらの心の集合体なのだった。

一匹一匹は力もない小動物でも、150匹も集まれば、こんなパワーを出すよとばかりの大形相を呈しているのだが、その目は鈴(鈴も魔除けを表す)大口を開ける逸れも猫、飛び掛らんばかりの前足も猫たちの結束した態。
一つになることで、大きな力を発揮できる何かを「五右衛門」は顕しているのではないだろうかと思うTONなのであります。

そんな暗示的な猫たちも・・・・
残念ながら作品の性格上、ねこちゃんは大学の保管時期を過ぎれば解体の運命にあった。

殺処分を忍びなく学生たちは里親募集の声あげていた。

・・・聞きつけたのが、念珠堂の参加する一之宮商店会ということなのだ。

雷門一之宮商店会自体、3.11の大地震以降いてもたってもおられず、被災応援ののろしを上げてきたことは、何度かこのブログで触れさせていただいてきた。
「心ひとつに」が一貫した合言葉だったし、支援をさせてもらううちに、ますますその言葉が必要な一点であることに深く気づかされてきた。

そんなわけで、学生たちの「心ひとつに」の象徴「五右衛門」に縁を持たせてもらった。と言うわけである。

朝8時、東京藝大前は、別れを名残惜しい?学生たちが見送りました。
きしくも藝大美術館では、明日から被災地支援の展覧会が始まる告知がされていました。

猫が猫だけに、搬入の難しいことこのうえなし。

馬道通りに大型トレーラーを置いて、雷門一之宮商店会メンバー、東京藝大のメンバー、仕事をしてもらう頭たち、総合力で搬入します。
もともと神輿の形なので担ぎ棒の上に乗っているのですが・・・・
重いはずなのだけれど、みんなニコニコしてますね・・・・


新門の頭も正装して来てくれていました。

今日は、仮置きゆえに雨養生をしてっと・・・
学生たちのリーダーが頑張ってます。

新門の若い衆、アメリカ生まれの自転車の薀蓄なかなかのものだね。

はじめて!!

浅草に住んでほおずき市は長い間見てきたけれど、こんな環境のほおずき市初めて!

雷門は相変わらず暗い。

この姿にはだいぶ慣れてしまっているので、驚くこともないのだけれど・・・

仲見世は思ったほど混んではいなかった。

境内に入ると、

あれ・・・・?

あるはずのほおずきの屋台が一瞬見えない。

なぁんだ。いるじゃないの。
明るさに寄ってきたくなるもので、煌々ときらめくあかりがひとつもついていない。良く見ると、その周りのみやげ物や食べ物の屋台にもあかりが見えな・・・・いやいや、

LEDだろうか、ほんのり、うっすら何かがついている。
ついてはいるが、販売する側の顔すら見えない。
ましてや商品は真っ暗け。

だいじょうぶ?

余分な明かりがないおかげで、浅草寺本体の明かりが不思議な情緒を醸し出し、本堂がやみに浮かび上がって見えていた。

面白い効果だ。

もしかしたら古の時代はこんな感じだったのだろう・・・・か。

ローソクすら貴重品で贅沢なものとして扱われていた時代の夜は、暗くなれば暗いなかで露店はだしたであろうし、きっとこんな光景が、展開されていたのだろう。

孫三稲荷

江戸は駿府の縁が強い。
天正年間に安倍川の守護神をそのままこの地に移していると書いている。

家康の匂いが、ここかしこに残っていて、実に興味深い。
ふと足を止めてしまう自分に気づく。

三囲神社

久しぶりに三越に出かけた。

早々と用を済ませ、各階案内を見つめていいものないかと物色する。

7階に香のコーナーを発見するも今の時期はお中元の特設コーナーでごった返していて早々におばさん軍団の群れから脱出。

非常口付近の「三囲神社」の看板に誘われて、屋上に出てみる。

屋上は何もなくて気持ちがいい。

屋上庭園にしたらいいのに・・・
とはおもうものの・・・

近代的なビルの屋上に神社。

東急の屋上にも以前はあったし

こんなところに不思議の国があるのかも・・・

お寺めぐり

合羽橋にある図書館の帰り道、例によってお寺寄り道の虫が疼きました。

まず 曹洞宗本然寺

入りづらい雰囲気で山門前で引き返してしまいましたが、あとで調べてみると、
番町皿屋敷のお菊稲荷があったことを知りました。

今度行ったら、お参りしないと。

次は時宗のお寺 日輪寺


もとは、柴崎村(今の千代田区)にあったお寺で明暦の大火で移築された、もと天台宗寺院。疫病が流行ったとき、平将門のたたりとと恐れた村民の為に、この地を訪れた時宗の僧「他阿」が首塚を供養し納めたのをきっかけに、時宗に改宗したといわれる。

柴崎村にあったことからここを柴崎道場(念仏道場)とよばれていて、この地を柴崎町と呼ぶようになったようだ。

山門を抜けてふっと本道に目をやろうとすると、
おっと・・・

ま。都会の寺院は仕方ないのかもしれないけれど・・・
寺って、周りの風景も含めて寺なんだと思うのだけれどね。

入り口左側に観音堂。

新観音霊場になっていました。

最期は、浄土宗の天嶽院

ここもタワーマンションが建ちつつあって、景観どころの騒ぎではなさそう。

江戸時代の儒学者、細井平洲のお墓が文化財になっていました。

ちょっとぶらぶら2


まだ水煙の上の玉はおとしたままね。
心棒は曲がっていました。

鯉のぼりが元気良くて勇気付けられます。

五重塔院の下に眼を移すと・・・

なにやらインタビュー中

アメリカ人?のクルー?どこだろう

三社祭りの中止

激甚災害から10日、今年の三社祭りの中止が浅草神社より知らされた。

「被災者の救援もまだ滞っているなか、そうなるだろう・・・」
今は、とてもできる状況に非ずと腹をくくっていた中だったので、妥当な判断とむしろ安堵に思った。

http://www.sanjasama.jp/ 宗教行事としての内祭は行なうとのこと。

ちょっとばかりホッとする。

来年は、三社祭り催行700年という。

浅草の観音様が浅草浦(隅田川)から揚がった故事に基づく祭りの原型である舟祭りを再現するこの催事を粛々とこなすようになるのかなとも思った。

http://www.asakusajinja.jp/news/funasai2012/

どうせなら、江戸時代まで各町で競っていた山車も復活しないかしら・・・
「観音祭り」としての本来の姿が催行されることを望んでいるのはTONばかりではないと思うのだけれど。

こんな時だけど・・・

11日の東北関東大震災以降、朝の慌ただしさから走る足を止めていた早朝のジョギングを再開した。

何しろ配達用の車にガソリンを入れるため、早朝から長い行列を作らなくてはいけなくて走るどころではなかったんだもの。、

「もうだめ」
禁断症状は今日こそと、ジョギングシューズを履かせ家を飛び出すエネルギーと化した。

どっちに行こうかな・・・迷うこともなく
関東大震災の殉難者を祀る慰霊堂に向かって足を運んでいた。

墨田川沿いに走れば、
安田庭園の脇から横網公園に入ることができる。
今はもう横網町という名称は消えてしまったが、公園名としてのみ往時の「横網町被服廠」の名残を感じさせる。

こちら側からはいるといつも本堂に隠れて見えにくい三重塔全体が拝める。

ぐるっと本堂を回りこむとここからもスカイツリーが顔を覗かす。

法要用のスピーカーだろうか、正面の破風下に取り付けられていた。
ぼくには、この建物の出自が出自だけに、なんとも言えない緊迫感をもたらされるのだが・・・。

震災記念館を覆うかのような高層ビルにちょっとばかり時の移ろいを感じてみたり。

浅草寺も・・・

五重塔のてっぺん、水煙のさらに上にある球体の飾りの二個あるうちの一個が落下。

朝さっそく確認に行った。

見る角度によっては芯棒が曲がっても見える。

以前は、こんな感じだったのだ。

二尊仏周辺

江戸初期の武士、久米平内を祀った久米平内堂

九州の牢人、久米平内(兵藤とも言われる)が江戸に出て道場を開いた。

剣の道にて犯してきた罪状を悔い、浅草寺塔頭金剛院にて座禅にはげんだ。本人の希望で身代わり像を浅草寺参道に埋め多くの参拝者に踏まされことで、地獄の災禍から逃れるとした罪状消滅を願った。

いつか「踏みつけ」が「文つけ」に転じ願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。

平和地蔵尊

先の戦災で亡くなった人たちの霊を慰め、また世界平和を祈念して
昭和24年に龍郷定雄氏が私財を投じ、浅草寺の協力を得て建立されました。

実はこの一角に念珠堂も出店計画があったのです。

以前と比べると格段に店も多くなり通りが良くなりました。

二尊仏のまん前なのですから、TONといたしましては、もっともっとお参りの人が多くてもよいと思うのですが。