江戸は駿府の縁が強い。
天正年間に安倍川の守護神をそのままこの地に移していると書いている。
家康の匂いが、ここかしこに残っていて、実に興味深い。
ふと足を止めてしまう自分に気づく。
お寺と神社さまざまありますよ
江戸は駿府の縁が強い。
天正年間に安倍川の守護神をそのままこの地に移していると書いている。
家康の匂いが、ここかしこに残っていて、実に興味深い。
ふと足を止めてしまう自分に気づく。
久しぶりに三越に出かけた。
早々と用を済ませ、各階案内を見つめていいものないかと物色する。
7階に香のコーナーを発見するも今の時期はお中元の特設コーナーでごった返していて早々におばさん軍団の群れから脱出。
非常口付近の「三囲神社」の看板に誘われて、屋上に出てみる。
屋上は何もなくて気持ちがいい。
屋上庭園にしたらいいのに・・・
とはおもうものの・・・
近代的なビルの屋上に神社。
東急の屋上にも以前はあったし
こんなところに不思議の国があるのかも・・・
合羽橋にある図書館の帰り道、例によってお寺寄り道の虫が疼きました。
まず 曹洞宗本然寺
入りづらい雰囲気で山門前で引き返してしまいましたが、あとで調べてみると、
番町皿屋敷のお菊稲荷があったことを知りました。
今度行ったら、お参りしないと。
次は時宗のお寺 日輪寺
もとは、柴崎村(今の千代田区)にあったお寺で明暦の大火で移築された、もと天台宗寺院。疫病が流行ったとき、平将門のたたりとと恐れた村民の為に、この地を訪れた時宗の僧「他阿」が首塚を供養し納めたのをきっかけに、時宗に改宗したといわれる。
柴崎村にあったことからここを柴崎道場(念仏道場)とよばれていて、この地を柴崎町と呼ぶようになったようだ。
山門を抜けてふっと本道に目をやろうとすると、
おっと・・・
ま。都会の寺院は仕方ないのかもしれないけれど・・・
寺って、周りの風景も含めて寺なんだと思うのだけれどね。
入り口左側に観音堂。
新観音霊場になっていました。
最期は、浄土宗の天嶽院
ここもタワーマンションが建ちつつあって、景観どころの騒ぎではなさそう。
江戸時代の儒学者、細井平洲のお墓が文化財になっていました。
まだ水煙の上の玉はおとしたままね。
心棒は曲がっていました。
鯉のぼりが元気良くて勇気付けられます。
五重塔院の下に眼を移すと・・・
なにやらインタビュー中
アメリカ人?のクルー?どこだろう
激甚災害から10日、今年の三社祭りの中止が浅草神社より知らされた。
「被災者の救援もまだ滞っているなか、そうなるだろう・・・」
今は、とてもできる状況に非ずと腹をくくっていた中だったので、妥当な判断とむしろ安堵に思った。
http://www.sanjasama.jp/ 宗教行事としての内祭は行なうとのこと。
ちょっとばかりホッとする。
来年は、三社祭り催行700年という。
浅草の観音様が浅草浦(隅田川)から揚がった故事に基づく祭りの原型である舟祭りを再現するこの催事を粛々とこなすようになるのかなとも思った。
http://www.asakusajinja.jp/news/funasai2012/
どうせなら、江戸時代まで各町で競っていた山車も復活しないかしら・・・
「観音祭り」としての本来の姿が催行されることを望んでいるのはTONばかりではないと思うのだけれど。
11日の東北関東大震災以降、朝の慌ただしさから走る足を止めていた早朝のジョギングを再開した。
何しろ配達用の車にガソリンを入れるため、早朝から長い行列を作らなくてはいけなくて走るどころではなかったんだもの。、
「もうだめ」
禁断症状は今日こそと、ジョギングシューズを履かせ家を飛び出すエネルギーと化した。
どっちに行こうかな・・・迷うこともなく
関東大震災の殉難者を祀る慰霊堂に向かって足を運んでいた。
墨田川沿いに走れば、
安田庭園の脇から横網公園に入ることができる。
今はもう横網町という名称は消えてしまったが、公園名としてのみ往時の「横網町被服廠」の名残を感じさせる。
こちら側からはいるといつも本堂に隠れて見えにくい三重塔全体が拝める。
ぐるっと本堂を回りこむとここからもスカイツリーが顔を覗かす。
法要用のスピーカーだろうか、正面の破風下に取り付けられていた。
ぼくには、この建物の出自が出自だけに、なんとも言えない緊迫感をもたらされるのだが・・・。
震災記念館を覆うかのような高層ビルにちょっとばかり時の移ろいを感じてみたり。
五重塔のてっぺん、水煙のさらに上にある球体の飾りの二個あるうちの一個が落下。
朝さっそく確認に行った。
見る角度によっては芯棒が曲がっても見える。
以前は、こんな感じだったのだ。
江戸初期の武士、久米平内を祀った久米平内堂
九州の牢人、久米平内(兵藤とも言われる)が江戸に出て道場を開いた。
剣の道にて犯してきた罪状を悔い、浅草寺塔頭金剛院にて座禅にはげんだ。本人の希望で身代わり像を浅草寺参道に埋め多くの参拝者に踏まされことで、地獄の災禍から逃れるとした罪状消滅を願った。
いつか「踏みつけ」が「文つけ」に転じ願文をお堂に納めると願い事が叶うとされ、江戸時代中期以降、とくに縁結びの神として庶民の信仰を集めた。
平和地蔵尊
先の戦災で亡くなった人たちの霊を慰め、また世界平和を祈念して
昭和24年に龍郷定雄氏が私財を投じ、浅草寺の協力を得て建立されました。
実はこの一角に念珠堂も出店計画があったのです。
以前と比べると格段に店も多くなり通りが良くなりました。
二尊仏のまん前なのですから、TONといたしましては、もっともっとお参りの人が多くてもよいと思うのですが。
毎月一日の朝は浅草寺の掃除会。
冬の空は広くて清々しい。
浅草寺境内も子と細かく見ていくと神様のデパートなんて言葉が出てくるくらい、1400年の歴史のなか、官に主ねいての寺でなかっただけに、民衆の心の下支えになってきた寺として様々な神様仏様が勧請されて境内に鎮座ましましている。
残念ながら明治の神仏分離令によって権現社は隣の浅草神社に合祀されたり、消滅してしまってはいるが。
境内からのスカイツリーの眺め。
御東さんの御灯明と呼ばれた京都タワーのような洒落たあだ名が生まれるとヨイのですが、景観を削ぐものと邪魔者扱いされる向きもあり、どう評価されますやら・・・
チタン瓦が葺き終わり綺麗なお屋根。
昔の姿も趣きがあって捨てがたいけれど、重量が五分の一まで軽くなったというから、防災の観点からは必要なことなのだろう。
宝光山大行院
天台宗
浅草寺境内と隣接しているので間違えやすいのですが、法人としては別です。
台東区役所へ用事で出かけた帰り道、はたと思った。
雷門まで何ケ寺あるのだろう。
何度往復したかわからないこのルート。
時間のない中ゆえに数えるだけとおもいつつもせっかくだからと写真も撮ることにした。ただしいつものルートだから、表通りに面しているお寺は抜きということで。
まずは下谷神社。考えるとすでにここからルールを破っていたことに気づかず。
永昌寺
朝日山願成院永昌寺浄土宗
明治15年に嘉納治五郎がこの寺院の境内に柔道場「講道館」を設立した。
とありますね。
永禄元年(1558)
肥前藩主松浦壱岐守の妻、永昌院が開基となり、寺名に由来している。
とも記録されてます。
蓮城寺
常光山蓮城寺 日蓮宗
花がきれいだったなぁ。
寛永15年11月開基
万年山祝言寺
曹洞宗
山門をくぐったら別世界だった・・・
よく掃き清められていてさすがに禅宗だ・・・
太田道灌建立の寺なのだそうだ。
天文20年太田道灌建立。開山良山在久大和尚
行安寺
寿福山経寿院行安寺浄土宗
もともとは慶長9年3月神田柳町に創建された。正保2年当地へ移転。
東京本願寺
正式には「浄土真宗東本願寺派本山東本願寺」
徳本寺
浄土真宗東本願寺派
店にいるとよく道を聞かれる徳本寺。
徳本寺にある文化財
絹本着色本多正信像・同夫人像各1幅(日本国重要文化財)
木像阿弥陀如来立像(東京都有形文化財)
佐野善左衛門政言の墓
宋紫石の墓三河国に創建され、檀家本多正信に請われ江戸神田に移転、明暦の大火後当地へ移転しました
長敬寺
真宗大谷派
西光寺
玉圓寺
東光寺
清光寺
浄土宗
旧仁丹塔の斜め後ろくらいに位置する。
商店街に入り口をふさがれる形になっているので、入りにくい。
国際通りを越えると、もう雷門まで寺は一ケ字もない。
途中、墓所を通りに向けている寺院も5、6ケ寺あったけどそれはカウントしなかった。
やはり浅草には寺院が多いな・・・
また、他の通りの時も記録していこう。