灯台もと暗し

染め粉が必要になっていろいろ探していた。
○○ハンズだの○ざわやだのと足を伸ばしたけれどどうもピンとこない。

念珠の編糸に気に入った色が見つからず困っていたのだ。

しかたない自分で染めよう。ということになっていたのだが、
たすきに長し、なのであった。
ちょっとしか染めないのだから・・・
大量に入らないの・・・
青にもいろんな青があるの・・・

ほとほと困った。

ある日近所を歩いていると、

「あ!そういえば

何とか染料ってあったっけ」

急に思い出した。

江戸時代までここいらは、
半纏を染める職人が多かったのだ。

そこで買い求めたのがこれ。

これだけの買い物なのに事細かに説明してくれる。
聞くと、創業190年という・・・

職人の町浅草は、こんなところにその片鱗が見える。
おもしろいなあ。

木は大きくなりたがっている

真夏に吾妻橋際で信号待ちするとききっとこの木のお世話になっている諸兄は多いことだろう。

最近目にした大木の倒壊事故が、僕の関心事として、大木を見るとその根っこに目を向かわせるきっかけとなった。

ここも、アスファルトを押し上げて、さらに上へと伸びたがっている気がしてならない。

ど根性大根がことさらテレビに映るのなら、都会のど根性大木たちも、もっともっと取り沙汰されてもいいのじゃないのかな。

夏の日差しから守るため日陰をつくってくれて、
急な雨にも雨だれ除けになってけれて、
青葉は目に潤いを与えてくれて、
枯れ葉は決断の潔さを教えてくれて、
幹の太さは命の重さを教えてくれて、
天にも昇る広い枝ぶりは命の大きさを気づかしてくれて、
巨大な根っこは強くたくましく生きることを教えてくれるんだもの。

朝の光景


今の若い人はあまり見たことないだろうなあ。

最近の車は随分良くなった。

ぼくら子供の頃のは、ホースのジョイント部や使い過ぎのホース本体によく傷があって、小さな穴があいていたものだ。
作業のおじさんがバキュームして加圧するたびに、ホースから黄金の水が噴出していた。
それをよけながら学校に通ったものだ。

吹きかけられたことは幸いにもなかったが、車が去ったその後には・・・ご想像通りの光景が見られた。黄金の湖。

さて、この吸い取られたブツはどこに行くのだろう。

調べてみると、屎尿処理施設に持ち込まれ、無害化されて川に放流されるとなっている。

石川英輔の大江戸事情などを読むと、江戸時代までは(大正中期まではそうだったらしいが)貴重な資源として買い取り業者がいて貴重な売買の対象になっていたというのだから驚きである。
完全にリサイクルのシステムができていたのである。

大正時代、硫安など化学肥料の台頭で屎尿サイクルの輪は急速に崩れたと言う。

でも、これほどの人口を抱える大都会。食べれば間違いなく排出される黄金色を文字通り黄金にできないものなのだろうか。
いつまで、捨てるしかないという発想を持ち続けなければならないのだろうか。

臭いすら処理されている無臭のバキュームカーを前にふと思った。

駆け足出張

寝坊しました。

神戸まで足を伸ばしたかったのだけれど・・・
比叡山阪本の自坊にもよってきたかったのだけれど・・・
すべて惰眠と引き換えに夢の出来事になってしまった。

比叡山往復を毎月していたのはいつのころか。
車で夜中をかけて走り、大津のパーキングにふらふらで滑り込み仮眠をとって顔を洗って阪本に向かったものだ。
温かく迎えてくれた師も一人減り二人減りしてしまった。
けれどやはり琵琶湖が近づき比叡の山が遠望されると懐かしい。

ただし、あんな強行軍、もうしたくないしな・・・

久しぶりに大阪環状線に乗った。
今まで気が付かなかったけれど・・・
古レールを利用した駅舎がずいぶん残っているのに気が付いた。
電車も103系と懐かしいのが走っていたけれど、古レールの駅舎の多さにはそれ以上に驚いた。

写真のホームは桜ノ宮。あまりにも美しいので撮ってしまった。
このカーブがなんとも色っぽい。


停車中の車輌は103系だ。
国電時代の生き残り。


もう・・・何度重ね塗りされているのだろう・・・
素地の文字が全く読めない状態なのだけれど、30kgレール?かな。
年代物のレールを使用している。

レールのサイトを探していてパナホームのサイトに古レール再利用としてこんなのを見つけたが、昔の芸術的な作り方にはとてもかなわない。

http://panasonic.biz/kankyo/eng/architecture/eco_facade/002_rail.html

人の背丈に見合ったアットホームな大きさと、芸術性を併せ持つということが僕には最大の魅力として受け取れるのだ。
利便性を図るというだけの合理主義の中からは決して生まれてこない芸術性。
いいなあ。もっと手を加えたらいいのに・・・

大阪城もよく見えました。

意地

あるラーメン屋に上さんと車で出かけた。

夜10時を直前に夫婦で入店した。
何にしようかと迷っているとテーブルの上にあったお勧めに目が溜まる。

「野菜いっぱいのチャーシュー麺」
決まり!

も少し読み込んでいくと、
5月いっぱい餃子半額160円。
そしてさらに、
「今月中にモバイル会員になると餃子0円」

よし。これいこう。

モバイルと言うからには携帯か・・・

ぼくのノキアではQRコードは読めないから
上さんの携帯でとなった。
ちょっと心もとないな・・・

上さんは説明書を読まない人だから、いまだに携帯は電話とメールをたまにかけるだけのブラックボックスなのだ。
メールを使えるようになったのも驚異(脅威かも)である。

で、QRを読込んでっと。
さあそれからが大変。
なにやら画面の中を行ったり来たり。
いっこうに前に進まない。店員は横で田って待っている。
「登録できましたら及びください」引っ込んじゃった。

しこしこやるが、「二重操作はできません」だの勝手にコメントがついて前に進まない。
業を煮やして、現金でいいから頼もうということになったが、
「しゃくじゃん」ということで、僕の携帯からアドレスを直打ちすることにした。

これまた目が見え辛くて虫眼鏡で操作するのだ・・・
「辛いよう」とは口には出せない・・・

ここでまた店員が横についた。
ラーメンを運んでくれたのだ。
しかし、これが・・・
画面の切り替わりが遅い遅い。

「できましたら及びください」
また行っちゃった。

格闘20分。
クーポンがようやく顕れて「はい。お持ちいたします」
めでたく餃子一皿ゲット。

食べ終わりレジで清算した。
店を出たとき上さんが叫んだ。

「なに!この180円って!」
確かに合計金額が予想より高い。

「餃子の分をつけられているんじゃないの」とぼく。
上さんは首をかしげている。

レシートを覗き込むと・・・
餃子=0円

ん?
・・・・「深夜割り増し」

二人は顔を見合わせた。

大きくなったキングギドラ

週末の買い出しではお決まりのコースがある。
いつものことなので気にもかけないで言問橋を渡り、東武線の業平のガードをくぐり、浅草通りを押し上げに向かう。

昨日は、その風景にちょっとした異変があった。
何かが違う。

今まで空だったところに、といっても夜空ではあるが都会であるから漆黒とまではいかないがそれでも多少の星が散りばめられたお空が見えていた。

そこに赤い点滅ライトが暗黒の空に浮かび、占領して見えるようになっていたのだ。

そう。
例のキングギドラ似の大型クレーンが夜空に羽を広げていたのである。

子供の頃よく夢を見た。
ゴジラが山の向うからヌーっと顕れて逃げ惑うわけである。
映画の場面でも盛んに使われた光景である。
仏画の世界で言うならば、山越弥陀の構図である。

「あれ?ここからこんなに見えたっけ?」

ということで久々に早朝小雨の中、自転車で押上地域を一周してきた。

言問橋上からでもはっきり見える。

人の目は勝手に目的物にフォーカスしてしまうから、望遠レンズで対称を引っ張ってきてしまうようなもの。だから人の目の感覚に近づけようとちょっとばかり望遠を使って撮ってみた。けれど、大きいし異様な感じもする。

いつもの定位置である業平橋上から見ると、いっきに5階分以上立ち上がった感じがする。

こうなると、近代建築の施工方法だと速いこと・・・。
工期短縮は工事費用に極端に反映するからね。

歩いていると町の姿が再開発の下に変貌を遂げようとしているのが肌で感じる。

いつものマンションの高層階から全体の写真をと思ったら、関係者以外お断りの張り紙がしてあって、盛んに写真目当ての不心得者(僕も?)が進入していることを示唆している感じを受けた。
テレビでも新聞でもスカイツリーの定点撮影を話題にしているから、きっと傍若無人な御仁が中にはいるのだろう。住人にとってみれば迷惑この上ないことだろう。

素直な僕はそれを無視し、マナー違反まで侵してまで最上階に昇る気にはなれず、現場をぐるりと一周することにした。
すでにここまで建ち上がってしまったら遠目でも充分な撮影が可能だもの。いつか許可を受けて高所からの写真を撮りたいとは思うが。

市電の写真を追いかけていた頃もそうだったが、新たに生まれ出る陰でひっそり消え去るものの方にいつもながら心を奪われる。

ごちゃごちゃした賑わいの中に下町らしかった押上の商店街も、だいぶ店舗の数が減っていた。
朝が早いこともあるけれど、人が行きかい、生業がそこにあり、人のぬくもりが、人の背丈の空間にこそ生まれると信じている僕には、人の背丈の5倍も10倍も高い天井の建物やアーケードではどうにも落ち着かなくなるらしい。

再開発は結構なことだ。
だが、これだけ大きい再開発となれば都市を再創造することであって、土地に根ざしていた文化はすっかり変化するのである。下手をすれば断絶ということにもなる。

都市空間のモジュールが生きた人間の寸法であってほしいと思う。
無機質を好む最近の都市デザインの傾向にはいささか飽きが来る。

そのうち京島辺りまで再開発の波は押し寄せるのだろう。

三田や六本木の姿が残像と化したように、かつてここには下町の風情と人情があったんだよと昔話にならないようにしたいものだと思った。