完成したみたい

東参道標注きれいにできました。
標柱の頭についていた、すずらん灯がなくなっていささか残念ではありますが。

東京オリンピック

2016年の東京オリンピックを町を挙げて後押ししようとしている。

他にもやらねばならないこともあるだろうと、
個々にはいろいろ意見も分かれるようだが、単純にオリンピックを体感したいというのも正直な気持ち。

街灯に垂らす東京オリンピックのフラックも見慣れてきたのではないかと思う。

ニュースソースを調べていると、
時事通信社のHPに東京オリンピック前の東京近郊の写真が掲載されていた。
つい懐かしさに時間を忘れる。

62年というから、小学1年生のころだ。
浅草もこの様子。
現在でも正月ならなんとか似た風景になるけれど・・・この写真は9月。

http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-2700282&d=004soc

当然のように足にしている都営浅草線もこんな状況だった。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-2511964&d=004soc

平面通行が当たり前の時代。
ぼくにはこのほうがしっくり来る風景なのだが。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-2700271&d=004soc

http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-2706988&d=004soc
今ならさしずめ環境アセスメントでどうこうと問題視され、景観保持の観点から反対運動が起きそうな予感がするが、
当時は国土を変える事が当然の時代だったんだと今にして思うところだ。

進駐軍が都心の一等地に陣取る時代だった。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-4036391&d=004soc

しかも、防空壕まで。
http://www.jiji.com/jc/d2?p=tol00103-4149182&d=004soc

写真は時代の空気までを伝えるものだと感心する。

前回はまだまだ戦後を感じる中で挙行する意義があったのだ。
平和の祭典を意識し、戦争の陰を国内外から払拭するためのオリンピックだったであろう事は充分理解できる。

2016年のオリンピックに対しては少し認識が変わりそうだ。

ネコ

メダカを食べて大きくなったね。
そのニャンこの子供です。


ん?

再び雨

急に出かけることに。
と言っても日暮里だから隣町の気分。
自転車で出かけるも、暗雲立ちこめてきた。

いつもながらのことだけれどこれだもの。

東参道

浅草寺から二天門を通り江戸通りに交差するする三叉路に立つ標柱。
浅草寺への目印が、ついに補修され始めた。

昔は江戸通り上に都電が走っていた頃には電停が存在した。
「東参道」浅草寺への大事なおまいり道のひとつだ。
大戦後は・・・特に高度成長期以降には参道の風情は消えてしまった。

観光バスがその溜り場としてバス街道の如くになってしまっているが、
かつては商店が立ち並び、仲見世の風情があったなどとは、
誰も夢にだに思えない光景になっている。

その整備を地元有志によって行なうのだとか。
その第一歩が標柱の補修。

将来は川からの光景が見ものだな。

自転車のある風景

つい興味がそそられる。
ちょっと洒落たレストランもあるのだ。

持ち主は住み抱くに住む青年二人。

ここは、隅田川に一番近い裏道・・・いやいやウォーターサイドロード。

まだまだ未開発の感がぬぐえないがこれから楽しくなりそうだ。

外人向けの旅館もある。

大川風情

吾妻橋を遠望して一番美しいなと思う箇所だ。

駒形橋西詰めつまり、駒形橋の浅草側によったあたりからの風景が
バックのアサヒ本社ビルの燃える金の魂(俗には雲子ビルだが)と、赤い橋、青い空、そして屋形船がコントラストとハーモニーを美しく奏でる。
空が静なら波間は動。


3年も経てば、今度はこのキャンバスの中に、スカイツリーの尖塔が動と静を奏でることになる。

変化がまた楽しめそうだ。

浅草寺の戒殺はここ駒形堂(地元ではこまんどうと呼ぶ)が南の仕切りとなる。

もともとはもっと道路中央よりにあったと古地図は教えるが、
渡しから駒形橋の鉄橋が生まれるとき容赦なく古刹を隅に押しやった。
このふもとから観音様が漁師の兄弟に引揚げられたのだから、
もともとはここから祭りの原点なのだ。

駒形堂に隣接するむぎとろも改装し落ち着いたたたずまいとなり、
いいムードをかもし出している。