香りゼロ

「匂いの少ないお線香ちょうだい」
「洋服に匂いがつきたくないから」

開口一番こう切り出して店に入ってこられる方。
解らないでもない。

さらに進んで
「匂いのないお線香ないの」
となる。

匂いのないお線香。

お線香とは、「香」すなわち「かおり」のベースを線状にしたものなのだ。
つまり
「かおりのしないかおり」はないのか、と聞いておられるのだ。

さてこれは困った。

お客様の希望とあらばでき得ることは何とかしたいと思うのだが、
「香のしない香」とはいかなる香なのか・・・

大事なことは、「香のしない」という意味には二通りの解釈があるということなのだ。
つまり、

1.文字通り無香料を意味する言葉

2.お墓やお寺で使う線香の匂い・・・特にお墓で「目痛いわね」といいながら使う杉っ葉線香のようなお線香をイメージして、そんな抹香臭いのはいやと言っているようなのである。

2.は、まず無理解からくる誤解と思っている。
だって現在のお線香はほとんどがフローラルや香木のピュアーな香が多いのだから、
香水かと見間違う香と出会えていないところから来る誤解と思っている。

1.については、実は聞き捨てならない言葉なのだ。

なぜなら、香があるから、香なのだ。
香がしなければ、「線」ないし「線火」となってしまう。
「線ください」
では格好にならないだろう。

「香はほとけさまのお食事」とは昔、年寄りによく聞かされた言葉だ。
初物を差し上げるのもやはり一番のものはご先祖様にという配慮と、
香の良いものを差し上げるということだと気づかされる。

不思議に仏前に差し上げたものをお下がりとしていただくと匂いが激減していることに以前気が付いた。
置いときゃ匂いもしなくなるわさ。と思う諸氏はそれでもよい。

自分なりになるほど香を食されるのだなと思ったのだからしかたない。
そしてお花も香が命。
キーワードは「香」なのだ。

そこへいくと、線香はまさに「香」の塊だ。

だから火をつけるだけの線香なら、ローソクにその座を譲ろう。

火が危ないと言うのなら、火を使わないペースト状でも、
石ころ状でもよいのではないか?とさえ思う。

少しでいいのです。
「いいなあ」「ほっとするね」と思う香を仏法僧の3本なんていわないから、
少量でよいので差し上げて欲しいなあと思うTONちゃんなのでありました。

ちなみに「香ゼロ、全く臭いません」、というお線香もありますょ。

※「臭う」と「香る」は違います。念のため。

変化

浅草がなんだか騒がしい。

ほおずき市や花火大会などの年中行事で賑わうのも去ることながら
町の整備に余念がない感じであっちもこっちも道路を掘り返している。
大川(隅田川)端が変わるだろう・・・

600m超の世界一の高さとなるスカイツリーが川向こうの業平-押上に数年後には完成する。
ネーミング決定からは、目に見える形でより具体性を帯びてきた。

建設箇所が墨田区だからといって対岸の火ではない。

大手のデベロッパーはこの機を逃すはずはないだろうから
町の様子は、六本木がそうであったように、汐留がそうであったように、
恐ろしく変化するであろうことは容易に察する。

100年の計を考えて、防災都市を考えてもらいたいものだ。

山川草木 悉皆成仏

親しくさせていただいている方から、
暑中見舞いのおはがきをいただいた。

筆書きで、伝教大師を中央に描き、

「山川草木 悉皆成仏」と大きく現していた。

庭師として天台宗の寺院にご縁が多い方だから描いてくださったのかなと思う反面、
日頃、草花、木々を、土を岩と語りながら、自然と
そこに潜む仏性に触れているうちに染入るように理解したのかな。と思えてならなかった。

机上であーだ、こーだと説法をするものより、
空念仏を伝えるものより、よほど胸を打つ言葉だった。

ずっと以前はじめて「山家学生式」に触れたとき知らずうちに胸を詰まらせたあの気持ちが思い出された。

国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人言わく、径寸十枚、是れ国宝にあらず、一隅を照す、此れ則ち国宝なりと。古哲また云わく、能く言いて行うこと能わざるは国の師なり、能く行いて言うこと能わざるは国の用なり、能く行い能く言うは国の宝なり。三品の内、唯言うこと能わず、行うこと能わざるを国の賊と為す。乃ち道心あるの仏子、西には菩薩と称し、東には君子と号す。悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり。

道心は常に持ち合わせているだろうか。。。